山さん:はじめまして失礼します。
宗教教育やリテラシーのことを学者さんたちは、思想的に解説されております。しかし、宗教というのは思想ではなく、生活であり居場所であり、見えない神に行き着くまでは、人間の愛着形成や人格形成の最中に感じ取るもの、安心感や心配り同情や、自他の自尊心の育つところ、空気を吸い他者との交わり生活するその場であると感じます。
筆者:NHKテレビ「心の時代」で放映された「問われる宗教と”カルト”」と題する討論会は、けっしてあなたのおっしゃっている「思想的な解説だけ」ではないと思います。座長の島薗さんたちは「思想より実際の信仰が大切」とわかっていらっしゃいます。その理由の第1は、若松英輔さんをこの討論会に招いていることです。若松さんは「私は宗教思想の講義より実際の信仰が大切と思っていましたが、大学側に受け入れられず、退職した」とおっしゃってることです。第2に、同志社大学の小原克博さんは、「統一教会を批判すると、そこを唯一の居場所にしてきた信者さんの人生を否定することになる。統一教会には良さもあり、全否定するのは正しくない」ことをよくわかっていらっしゃいます。「山さん」ももう少し全体を見てください。
山さん:統一教会という組織と、そこにいる人々を分けたほうがいいと思います。そこにいる人々は、統一教会を生んだ人でも無く、組織を作り出した人ではなく、既に作られた組織に誘われて組み込まれて大きくなっているのです。統一教会の教えや人間関係は勧誘により広がります。勧誘された人は、そこで、神との関係や世界平和など目新しい教えを通して、心の故郷を見出してゆくのです。そして、地上の天国と云われる韓国の清平という聖地に行きますし、天国の聖本や、ロウソク、壺、塩や土を持っています。そのように、統一教会の人々は、自分の生きる居場所を、この世で満たされなかった愛着を、新たに見出していき、他の人を勧誘伝道するのです。神の家族を増やすために。
筆者:統一教会という組織と信者の人々を分けて考えることは、島薗さんたちも私も当然認識しています。さらに、上記のように、問題のある統一教会であっても信者にとっては居場所であることは島薗さんたちも私もわかっています。ただ、清平修練苑でやっていることは私には疑問です。「この宗教はすばらしい」と考えるのはいいのですが、だからといって他人をしつこく勧誘するのも正しくありません。新興宗教がよくやることです。統一教会もこの範疇に入ります。
山さん:その人たちが、正しい宗教教育をリテラシーやカルト異端の識別を育んでいれば、騙されなかったかというと、わかりません。騙される人の定義も、マインドコントロールと洗脳の定義も専門家の言う人それぞれだと思います。
筆者:私がブログに書いたのも同じ趣旨です。宗教リテラシーだけで騙されなくなるわけではないと思いまのす。私の考える、騙されているかどうか、マインドコントロールされているかどうか「歯止め」の一つは、「宗教をお金儲けの手段にしてはいるかどうか」です。この基準で統一教会は振るい落されます。
山さん:わたしも、キリスト教に縁があり、子どものころから、学生のときまでミッション系に居ましたし、洗礼も受けました。しかし、疑問をもち、町中で出会う青年の勧誘で、知らぬ間に統一教会に組み込まれていきました。長年その組織に居ましたし献身もしましたし、結婚もしました。しかし、神はこんな人生を喜んでいるのか、わたしは幸せではないとおもい悩んだ末、何度も脱走し、統一教会にはいかなくなりました。そして、奈良県での事件が、おきました。わたしは、行かなってよかったと思う反面、逃げるようにおいてきた元統一教会の元旦那や奈良県の嫁ぎ先の現統一教会家族に罪悪感もありました。また、相談相手のクリスチャンや福祉系である既婚者の男性たちにそそのかされたりもありました。
筆者:あなたが統一教会を退会されたことは賢明な判断でした。また、あなたが「元の主人やその家族を置いてきた」と自責されるのは尊いことです。ただ、「相談相手のクリスチャンにそそのかされた」と言うのはいかがなものでしょう。とにかくあなたは彼らの導きによって救われたのですから。感謝しなければなりません。
山さん:しかし、カルト異端の学びをしたり、他の宗派のキリスト教の門を叩いてこんな私でも罪のないキリストに救われるのかと打ち明けながらも、信頼して祈ると聖霊体験をしました。肩の荷が降りて心の重荷が涙となり流れました。こんな神を探し求めて、生活もできなくなる、ある意味での壮絶な体験をしてきた元統一教会員もいます。宗教は思想ではなく、生活、霊的なものも含めて、心の居場所です。
筆者:聖霊体験とはどんなものでしたか?よかったですね。差し支えなければ教えて下さい。あなたのこれまでの辛い経験もムダではなかったと思います。それどころか、常人より本物の信仰に近づいたように思います。
山さん:そして、信じても信じられない時があります。キリストを心底、信頼信用してないことがわかります。
信仰は、信心や測られるものではなく、神様の救いの賜物を受け取る手なので、愛を感情で感覚で感じなければ、理性だけで信じるのは無理です。義理人情や義務付けるものではなく、神様の愛に、触れなければ信頼するには至りません。わたしは、聖書を読むと、平和だけでなく、苦しみを感じます。シャローム、救われたで、ジ・エンドではありません。聖書は神を明文化されたものなので、日本人の宗教文学とは異なるものです。日本人は、明文化された人格神をなかなか、理解できないと聞いています。
筆者:信仰に迷うのはむしろ健全な態度でしょう。神の愛は頭で考えるのではなく、心で受け止めるべきだとのあなたのお考えには共感します。あなたのこの姿勢は、一見信心深いと思える人よりもはるかに真摯で深いと思います。
山さん:神道系の新興宗教に、いたこともありますが、掟がありませんし、神という立場が大分違うが、神への氏子として人間の願いや甘え、信頼というのは、取次という方を通して聞かれているというのは、人間の祈りという共通のものだと、感じました。
筆者:さまざまな宗教の門をたたき、信仰について試行錯誤していらっしゃるのがよくわかります。それも貴重な体験でした。私も神道系の新興宗教にいたことがあります。周囲にはそれを心配してくださる方もいらっしゃいましたが、いま思えば宗教の体験も決してムダではありませんでした。
山さん:罪人が、救われても、罪がなくならないのは、悪が存在し悪魔が、存在するからです。今すぐ憎い悪魔が悪を滅ぼすとアダムとエバの堕落から罪人の時から関係しているため、人間も滅ぼすことになってしまいます。神は、人間が愛に気付くことを待っているというのです。人間が神のようになるからと樹の実を食べたのは、悪魔を崇拝することではなく、神なくして人間だけで、生きていくということでした。自分が神のように生きるのです。それが罪です。そして、その神のジレンマから、受肉された人間キリストが必要でした。三位一体を否定する人は、この、神の心情と人となられた神の犠牲の有り難みが分からないのだと思います。スウェーデンボルグ派の人々は、三位一体を理性的ではないといいます。彼らの神秘霊的な感性は、ユダヤ教時代の神秘の世界がわからず、西洋化したキリスト教や、ギリシャ哲学や東洋哲学との違いのだと思います。スウェーデンボルグのIQテストが、どんなに200を超えていたとしても、聖書を否定している限り、神の人智を超えた神秘とユダヤ教の神秘がわからないのではないかと思います。
筆者:「自分が神のように生きる」とはとても良い言葉ですが、それが罪なのか、私にはわかりません。あなたのおっしゃっていることは理解できますが、それも一種のリテラシーです。ただ、悪魔うんぬんは、あまり深く考えない方がいいと思いますが。
山さん:もし、クリスチャンになろうとも、ある人は葛藤します、死ぬまで。ある人は委ねて平安がおおきいです。その差は何かは、わかりません。マザー・テレサでさえも、苦労の最中では神は居ないと、嘆いていたといいます。キリストを信頼する前に、義務付ける信心とかではなく、愛を感情で感じる、人間関係や自然界や聖霊との交わりの、愛情を育むことが必要です。わたしも、信頼関係がまだ遠いのです。異端カルトの、統一教会の言われるように、神は落ちた人間まで、降りて来られて憐れまれると、キリスト教でも教わります。変わらぬ神の愛というのに気付き、いつか、キリストに捕らえられることに違いありません・・・・・・
失礼します。
筆者:マザーテレサのような人でさえ「神は私の心の中には居ない」と言っていたことは私も知っています。あなたが信仰に悩んだのは当然の行為で、尊いものだと思います。
あなたのこのコメント全体を読んで、「本物の信仰とは何なのか」を改めて考えた人も多かったのではないでしょうか。とても貴重な信仰遍歴だと思います。よかったですね。私の甥がカソリック系の雑誌の編集をしていますので、参考になると思います。よければあなたのこの遍歴書を送ります。あなたはこれまでは大変な人生でしたが、これらの経験が生かされ、人生の再出発ができるよう、心からお祈りいたします。