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神(心)霊現象と私(4)

 柴田さんがおっしゃるように、私は心霊とコンタクトして嬉しいことなど一つもありませんでした。ただただ不快な体験でした。しかし、「この独特の不快感はなんだろう。よく頭に刻んでおこう」と考えました。今でもそれを再現できます。あとで考えれば、私にとって全く新しい世界でしたから、受け止めようと思いました。研究者とはそういうものです。

 私がその神道系団体に属していると知って、親しい後輩が「恩師と一緒に話をしよう」と言ってくれました。心配してくださるのは当然でしょう。当時はオーム真理教事件の記憶がまだ消えない時代でしたから。私は忠告をありがたく拝聴しましたが、気持ちを変えることはありませんでした。ただ、恩師は視野の広い人でしたから「そういう世界もあろう」と、何もおっしゃいませんでした。

 前にもお話したように、その教団では霊能開発修行をしていました。私も10年にわたってそれに参加しました。別に霊能を開発したかったからではありません。その教団へ入ったら、そこでは霊能開発をしていたからです。

 霊能開発は進みました。素質も少しはあったようです。しかしその結果、毎日、四六時中、霊障(!)に悩まされました。除霊の方法も学んでいましたが、追いつきません。大学での勤務中にひどい霊障を受け、教団へ駆けつけたことも。たんなる霊魂でなく、もっと上位の〈〉とコンタクトした結果だとか。

 私は教祖に相談しました。教祖が霊視すると、「あなたはあと一歩で霊能者になる」と。私は教祖に止めていただきました。私の本務は研究と教育です。霊能者の仕事は片手間にすることではありません。それなりの厳しさがあり、責任もあるのです。教祖には私の気持ちを十分わかっていただき、霊能者への扉を閉めてくださいました。

 世の中には霊とコンタクトすることを喜ぶ人がいるようです。その極端な例が新々宗教の教祖になることでしょう。しかし、多くの場合、それは大きな心得違いです。よくそういう教祖は「神が私のところへ御降臨になった」と言います。しかし、じつはその大部分は神を僭称する低級霊なのです。信者は「奇跡を起こしていただいた」とか、「問題が解決した」と言います。しかし、そんな霊験など、少しでも〈ましな〉低級霊にとっては簡単なことなのです。「もっとも深い罪とは、低級霊と一緒になって世を惑わすことだ」と聞いたことがあります。これまでにも多くの霊能者が死後深い闇の中で苦しんでいるはずです。

 もちろん正しい神霊とコンタクトできる人もいます。ちなみにそれを見極める一つの基準は、「神を金儲けの手段にするかどうか」でしょう。本来、霊能力は無料で人のために発揮するものなのです。もちろんその霊能者たちが専従になれば、最低限の生活費は保障されるべきです。しかし、いま多くの場所で目にする新々宗教の神殿の壮麗さには啞然とするばかりです。いえ、伝統仏教でさえ、壮大な仏殿と金ぴかの法衣にも驚かされます。キリスト教でもイスラム教でも同じです。無一物で粗末な着物を着て教えを説いた釈迦を思い出してください。いや、釈迦は特別な人だと思わないでください。良寛さんも百カ所もかがった衣を着て、飯を乞うて(乞食と言っています)一生を送った人です。

 柴田さんいかがでしょうか。これが私の、神(心)霊に対する向き合い方です。

神(心)霊現象と私(3)

 すぐれた思想家である小林秀雄さんは心霊現象について「あたりまえなこと」と言っています(「人生について」文春文庫など)。霊的体験もされています。その態度が小林さんの思想の幅と奥深さをもたらしたのだと思います。フランスの哲学者アンリ・ベルクソンや、民俗学者の柳田国男さんは、小林さんが尊敬する人たちですが、いずれも心霊現象について柔軟な受け止め方をしているのです。

 「知の巨人」立花隆さんも、神の世界や死後の世界の有無について徹底的に調べました。立花さんの「知への欲求」が、それらを学ぶ強い衝動になったのでしょう。そのため、「脳の特定の場所に弱い電流を流すことにより、神秘体験ができる」との言葉を信じ、わざわざアメリカの某医学研究所まで行きました。結局、その体験は得られませんでしたので、立花さんは「これでこの問題は卒業した」と言っています。しかし、立花さんは入口を間違えたのです。もし私と同様の入り口から入っていれば、同じ体験をしたはずです。それがなかったので、立花さんの思想の幅は広がらなかったと思います。惜しいことです。

 じつは、私が宗教団体に入っていることを親しい後輩が心配してくれました。そこで共通の恩師に働きかけて一席を設けて下さったのです。後輩の心配はもっともです。当時はオウム真理教事件で騒がしい時でしたから。ただ、そのとき恩師は「穏やかに見守る」という態度でした。恩師はきわめて寛容な人柄で、新しい思想にも柔軟な受け止め方をする人でしたから。けっきょく私は後輩の心配には応えませんでした。その結果、今に至るまで神や神(心)霊現象に強い関心を持ち続けています。それが禅と神を結びつけてくれたのです。それはとてもいいチャンスだったと思うのです。

 もちろん、柴田さんは自由です。

神(心)霊現象と私(2)

  私は禅を中心にして仏教を学ぶことで、苦しい時に耐えられる心を培いたいと考えています。死生観を得るためでもあります。そして、いろいろな人たちが苦しい時を乗り切った知恵も探して、皆さんの参考になればとブログを通して報告しています。

 読者の柴田さんは「あの世のことを知ることで悟りに至る助けにしたい」とお考えになったのでしょう。しかし、私のブログを読んで、「あの世のことはやはりわからない」との前言になったと思います。そのお気持ちはよくわかります。私の友人で、熱心にブログを読んでいただいているIさんも「神や霊魂のことだけはわからない」と言っています。それが健全な考えでしょう。しかし、まあお聞きください。

 柴田さんがおっしゃる「あの世のことを考えるより、弓道を通して、命続く限り最後の一瞬までこの世を正しく認識できるよう、日々を重ねてゆきたい」について私見をお話します。私は「よいお考えです」とご返事をしました。ただ、図らずも柴田さんの先輩が言った「わたしは正射をめざして三十年重ねてきたが未だに正射には至っていない。いつになったら至れるのかはわからないが、これからも一射一射正射をめざして重ねてゆこうと思う」についてはどうでしょう。ここで言う正射とは「悟り」と言って差し支えないと思います。先輩は「弓道を三十年重ねても悟りには至っていない」と言っているのです。

 柴田さんにとって弓道はやはり趣味でしょう。しかし私は40年間、生命科学の研究を正業としてきました。その一方で禅を学び、神について考えてきました。いずれも必死でした。その両者が相まって、あるとき突然「命は神によって造られた」と閃いたのだと思います。

 柴田さんは「あの世のことはやはりわからない」とおっしゃっています。柴田さんと私の違いは、霊的体験をどう捉えたかでしょう。柴田さんはそれをネガテイブにとらえました。不愉快な体験だったからでしょう。これに対し、私は「未知の世界に触れることだ」と前向きに捉えたのです。そのため積極的に霊能開発修行に取り組みました。その結果、「禅と神」が結び付いたと思うのです(次回へ)。

神(心)霊現象と私(1)

 読者の柴田さんは、どの言葉からも誠実な人柄がしのばれる方です。最近「霊という存在についてお聞きしたい」とありました。そこで3回にわたって私の体験と、それらについての私見をブログに書きました。ちなみに柴田さんも霊的体験をしたことがあるとか。以下は私のブログを読んでいただいた上での柴田さんのコメントです。

 ・・・・要望にお応え頂きありがとうございます。もしもあの世があったら1〜3を読みました。こんなこと言ったら根も葉もないのですが、私はやはりあの世のことはわからない。と思いました。

 私ごとではありますが、最近以前やっておりました弓道をはじめました。
そこである高段者の方から禅につながる面白いお話をききました。
「わたしは正射をめざして三十年重ねてきたが未だに正射には至っていない。いつになったら至れるのかはわからないが、これからも一射一射正射をめざして重ねてゆこうと思う」。

 わたしはあの世のことを考えるより、弓を通して、命続く限り最後の一瞬までこの世を正しく認識できるよう日々を重ねてゆきたいと思いました。

筆者のコメント:まず、柴田さんがおっしゃっているように、弓道を究めることによっても悟りに至ることができるようです。オイゲン・ヘリゲルの「弓と禅」などをお読みください。柴田さんは座禅もしていらっしゃり、とくに最近では原生林に入って瞑想しているとか。

 別の読者yconさんがおっしゃるように、筆者は禅と神を結び付けました。私は「悟りとは神と一体化すること。私たちが直接神とコンタクトすることは、まずできません。そこでまず神(心)霊現象の体験を通して神に近づこうと思ったのです。私は、それが神が実在されていることのたしかな手掛かりにしているのです。

 何度もお話しているように、私は10年間にわたってある神道系教団に入り、いわゆる霊能開発修行をしました。別に霊能開発をしたかったわけではなく、その教団に入ったら霊能開発修行をしていたのです。修行の過程で、「これでもか」と言うように多くの神(心)霊体験をしました。それによって死後の世界があるかどうかはよくわかりませんが、霊魂が存在することは確信しています。

 私が禅を本格的に学び出して15年になります。べつに「悟りたい」というような抽象的な願いによるものではありません。当時、とても苦しい状況にあり、自分を支えるためにはどうしたらいいかを必死に模索していました。そして禅に戻ったのです。

 私は若い時から本を読んだり、講演を聞いたりして「これは将来、苦しい時に自分を支えてくれるいい言葉だ」と思ったものをノートに書き溜め、折に触れて開き、それらの言葉のいくつかを味わってきました(今でもそのノートは手元にあります)。しかし15年前のその頃、それらをいくら読んでも救いにはなりませんでした。「これではダメだ。もう一度禅を学ぶしかない」と決心しました。書店へ行けば解説書はいくらもありましたので読んで見ましたが、どれ一つしっくりこなかったのです。やはり原点に近いものから学び直さねばならないと考えました。(その後の経緯はブログでお話しましたのでお読みください)。

もしもあの世があったら(3)

 エヴェン・アレクサンダーの経験

 親しい友人を次々に亡くし、死が現実のものとして感じられる筆者にとっても、死後の世界があるかどうかは重大な関心事です。・・・・平安時代には、描かれた阿弥陀如来像の指のところに小さな穴を開け、そこから延ばした糸を死に瀕した人たちが握るという儀式がよく行われました。今でもその絵が、糸の切れ端まで付けたままで残っているものがあります。

 エベン・アレグザンダー(Eben Alexander III、1953~)は、元米ハーバード大学の脳神経外科医で、自身が遭遇した臨死体験を通して天国は実在することを、さまざまな場で発表しています。

 アレクサンダーの体験:

・・・・闇でありながら視界が利く不思議な世界、子宮の中にいるような遠くから響く音と振動、グロテスクな生物が吠え立ててくる。そこに上から美しい光が闇を崩壊してゆき、美しい旋律が聞こえてくる。光の隙間が開いた瞬間、エベンは空を飛んでいた。「なんて美しい所なのだ」気づくと横に見知らぬ女性が「あなたはいろいろな人々に深く愛されています。決して一人ではありません。お帰り頂いた方がいいでしょう・・・・

 その後、不思議な世界を回りながら、なんとも安心できる暗闇に降りて行き、生還したと言う。 (「プルーフ・オブ・ヘヴン–脳神経外科医が見た死後の世界」(Proof of Heaven: A Neurosurgeon’s Journey into the Afterlife)。

 アレクサンダーのこの主張は、死後の世界が実在することをはっきりと示したものとして大きな反響を呼びました。これまでさまざまな米内外の教会、病院、医学大学院、学術シンポジウム等で講演を行っています。

筆者のコメント:アレクサンダー博士のこの体験は、いわゆる臨死体験として、今でも、さまざまな人たちにの経験が語られています。ただ、批判も少なくありません。たとえば「それらの体験は、超常現象などではなく、人間の脳の奥深くに生命維持のために生まれながらに持っている能力だ」という、反論もあります。「人類が遠い昔から、死の恐れを逃れるための本能だ」と言うのですね。ちゃんとした科学者によるものです。筆者にはよくわかりません。

 いずれにしましても、「死んだら自分というものは無になる」と言うのは恐ろしい言葉です。それを晴らしてくれるのですから誰にとっても「他人事ではない」でしょう。