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もしもあの世があったら(2)

 

 霊魂が実在することの証拠として、よく〈生まれ変わり現象〉が挙げられます。わが国の科学者にはこの問題をまじめに取り上げる人はほとんどいません。しかし、欧米では純粋な科学的問題として研究している人も多いのです。米バージニア大学医学部の知覚研究室イアン・スティーブンソン教授らは、前世の記憶を持つ子供たちへの聞き取りを進め、現在までに世界40か国で2600例以上を収集しています。スチーブンソン博士が集めた代表的な例の一つが、日本の〈勝五郎〉の例です。

 ・・・・文政5年(1822)、中野村に住んでいた8歳の勝五郎は「自分の前世は程久保 村(東京都日野市程久保)の藤蔵だ」と語り、生まれ変わりの少年として村中の 話題になった。藤蔵は文化2年(1805)に生まれ、同7年(1810)2月4日に 疱瘡のため6歳で亡くなった少年である。祖母と共に歩いたことのないはずの道を迷うことなく進み、程久保村の藤蔵の 家にたどり着いた勝五郎は、藤蔵の家のことや、近所のことを詳しく話して周り の人々を驚かせた。 このことは江戸まで伝わり、文人大名として知られていた因幡若桜藩主の池田 冠山や、国学者の平田篤胤が聞き取った話は書物として残されています・・・・。

 前世の記憶を持つ子供

 スチーブンソン博士の研究室で客員教授を務めた経験を持つ、中部大学教授の大門正幸さんが調査すると、前世の記憶を持つという子供は日本にもいたという。

 ・・・・関西地方に住む男の子「トモ君」は、3歳11か月の時に突然「ニンニクを剥きたい」と言い出した。驚いた母親が理由を尋ねると、トモ君は「トモ君って呼ばれる前にしたことがある。その時は、イギリスのお料理屋さんの子供やった。1988年8月9日に生まれてゲイリースって呼ばれてた」とつぶやき、普段は右利きなのに、左手を使って器用にニンニクの皮を剥いたという。単なる子供の空想ではないか──トモ君の父親は最初はそう思ったが、それでは説明できない具体的な話もあったという。トモ君が4歳の時、テレビで列車事故のニュースを見てこう言った。「イギリスでもサウスオールで列車事故があったよ。テレビで『事故です。事故です』と言っていて、人が死んでしまった」

 父親が調べると、確かに1997年9月にロンドン西方のサウスオールで、7人が死亡139人が重軽傷を負った列車の衝突事故があった。トモ君が生まれる2年以上前の事故だった。

 数年後、お父さんがトモ君を連れて〈現地〉を訪ねました。しかし、どうしてもトモ君の〈前世のお料理屋さん〉は見つけられなかったのです。

 トモ君のように、前世を記憶する子供は他にもおり、「お父さんが、阪神淡路大震災の前に淡路島でお魚屋さんをしていた」と話す女の子もいます。ただし、現地を訪ねてみても該当する〈お魚屋さん〉は見つけられなかった・・・・トモ君やこの女の子のケースは、お母さんが詳細に記録しています。

 これらのケースに共通するのは、これらの子供たちが2歳ごろから〈前世の記憶〉を語り始めますが、7歳ころにはパタッと話すのを止めることです。14‐5歳になると、自分がそんなことを言ったことさえ忘れてしまうのです。

 NHKテレビでも特集番組が放映されましたし、筆者も興味を持ってそれらの事例について考えてみました。しかし、どうもそれは〈前世〉の記憶ではなく、どかに漂っている別の霊の意識が、まだ〈自己〉が定まっていない幼児の意識の中に入り込んだために起こった、幼児の意識と霊の意識の混線現象ではないかと思われます。こう考えると、なぜ、その子が元居た場所を訪ねても見つからなかったか、なぜ成長するにしたがって〈記憶〉を忘れてしまうか、もうまく説明できるのです。つまり、これらの現象を〈前世の記憶〉とか〈生まれ変わり現象〉と決めつけるべきではないと思うのです。

いかがでしょうか。

もしもあの世があったら(1)

 読者の柴田さんから、筆者の霊的体験について知りたいとのご要望がありました。小林秀雄さんの霊的体験についてお話したよい機会ですからお話します。

 「死んだら僕は無になる?とても怖い」沖縄県の医師志慶真(しげま)文雄さんは、子供の時からこの思いに苦しんでいたとか。気持ちはわかりますね。志慶真さんは後に熱心な浄土真宗の信者になりました。平安時代、死の間際の人が、阿弥陀如来画像の手の部分に開けた小穴に通した糸の端をつかんで極楽往生を願ったことはよく知られています。その絵がいくつか残されており、中には糸の切れ端まで付いているものもあります。筆者も親しい友が次々に亡くなり、死を意識するようになってきますと、「本当にあの世があったらずいぶん気持ちが楽になるだろう」と思ってます。

 「霊魂なんかない」と声高に言う人の多くが家に仏壇を持ち、お盆や彼岸にお墓参りする・・・・。先祖の霊がいないなら、供養する必要などないはずですが。

 東日本大震災では、たくさんの霊との出会いがありました(奥野修司「魂でもいいから、そばにいて 3・11後の霊体験を聞く」新潮社)。その一つ、

  宮城県石巻市の遠藤由理さん(42)は、津波で3歳9か月の長男・康生こうせいちゃんを失った。震災から約1か月後、遺体は見つかった。震災後、遠藤さん一家は「みなし仮設住宅」に住んでいたが、不思議な体験をしたのは、震災から2年たった頃。「康ちゃん、どうしてるんだろ。会いたいなあ」という思いが頂点に達したときだったという。

・・・・2013年のいつでしたか、暖かくなり始めた頃でしたね。あの日、私と中学生の娘と主人と、震災の翌年に生まれた次男の四人で食事をしていたんです。次男に「ごはんよー」と言い、
「康ちゃんも、こっちへおいで」と言ったとたん、康ちゃんが大好きだったアンパンマンのハンドルがついたおもちゃの車が、いきなり点滅したかと思うと、ブーンって警笛が鳴ったんです・・・・。
「康ちゃん、もう一回でいいからママにおもちゃ動かして見せて」と、心の中でお願いしたんです。そしたらまた動いたんですよ。こんな近い距離で私たちを見てるんだ。そう思ったとき、昔から私に「笑って、笑って」とひょうきんな顔をしたのを思い出しましてね。そうだ、私も笑わなきゃだめだ、頑張らなきゃだめだと思ったのです・・・・

 せつなくなりますね。でも由理さんがウソを言ってるはずはありません。霊はたしかにあるのです。

小林秀雄さんの心霊体験(2‐4)

 魂は実在する

 小林秀雄さんは、講演のさい「魂はありますか」と質問されたのに対し、「あるに決まっているじゃないか」と言っています。緻密な考察を踏まえての結論でしょうが、驚かされますね。小林さんの人間の意識や魂についての考えは、研究対象だった本居宣長やアンリ・ベルグソンに依るところが大きいと言っています。

 ベルクソンは〈物質と記憶〉(杉山直樹訳 講談社学術文庫)の中で純粋知覚純粋記憶という議論を展開しています。

・・・・われわれが通常あるもの、たとえば一冊の本を知覚するとき、その本には何らかの記憶、どんな内容だったか、どこで買ったものだとか、といった記憶がしみ込んでいます。〈純粋知覚〉というのは、われわれの知覚からこうした記憶を完全に抜き去ったもので、これが〈物質〉であると言っています。さらに「一方、〈純粋記憶〉は逆に記憶から知覚を完全に取り除いたもので、これがだ」と言うのです。魂とは純粋な記憶、記憶そのものだという意味でしょう。

 いかがでしょうか。筆者はベルグソンのこの論述には疑問があります。まず、定義が肝心ですが、筆者の理解では、

・・・・知覚というのは人間がものを見たり聞いたりする認知作用で、物質はその対象です。つまり、決してベルグソンの言うような知識=物質にはなりません。第二に、ベルグソンは魂とは記憶であると言っていますが、筆者には記憶とはITで言うメモリーであり、無機質な媒体にすぎないと思います。つまり、ベルグソンの言うような記憶=魂ではないはずです。これに対し筆者は、魂とは意識だと思います。意識とは心の動きです。意識には顕在意識と深層意識、さらにその奥に神とつながる意識があると思っています。そこで筆者は神とつながる意識が魂だと考えています。

 いずれにしましても、筆者も「魂は実在する」することを確認しています。それはベルグソンや小林さんの論及とはまったく別の方面からです。つまり、筆者は霊が話したり、自分の意思を示したりするのを実体験しているのです。

小林秀雄さんの心霊体験(2‐3)

 今回はあのユリ・ゲラー騒動(註1)についての小林さんの感想についてお話します。

註1 ユリ・ゲラーは1974年を皮切りに、公式・非公式に何度か来日。さまざまなテレビ番組に登場してスプーン曲げや、テレビの画面を通じて念力を送ることで止まっていた時計を動かすといったパフォーマンスで日本での超能力ブームの火付け役となった。しかし、しかし、巧妙なトリックを使ったインチキだという指摘も多い。次の小林さんのコメントは、それに対する反論です(註2)。

 すなわち、小林さんは〈人生について〉中公文庫p230および〈考えるヒント〉文春文庫p7の中で、

・・・・これを扱うテレビや新聞や雑誌を見てみますと、ふしぎを不思議と受け取る素直な心が、何と少ないかに驚く。これに対し嘲笑的態度を取るか、スポーツでも見て面白がるのと同じ態度を取るか、どちらかでしょう。念力というようなものに対してどういう態度を取るのが良いかという問題を考える人は、きわめて少ないのではないかと思う。今日の知識人達にとって、己の頭脳によって理解できない声は、皆調子が外れているのです。その点で、かれらは根柢的な反省を欠いている、と言っていいでしょう・・・・・私は念力とはテレパシーのことは学生の頃からよく知っており、頭から否定する考えはありませんでした・・・・

筆者のコメント:まったく同感です。小林さんは前記のように「母が人魂になった」という実体験もしています。一方、作家の菊池寛さんが、講演旅行で止まった四国の旅館で幽霊に苦しめられたという体験も紹介しています(〈人生について〉中公文庫)。しかし、菊地さん自身も小林さんも「そんなことは珍しくもないことだ」と、思索をそこで止めているのが残念です。、それらの体験をきっかけに「死んだらあの世に行くのか」とか、「生まれ変わりはあるのか」などの、私たちにとっては重大な疑問にまで思索を勧めて欲しかったのです。

註2 作家の椎名誠さんは、なんにでも興味を持つ人ですが、あるスプーン曲げ少年の〈作品〉を実見し、「インチキにしては、こんなにスプーンやフォークをギュルギュルと曲げられないだろう」と言っています。

小林秀雄さんの心霊体験(2‐2)

 前回、すぐれた思想家の小林秀雄(1902-1983)さんが、眼に見えない世界についてどう考えているかを、「(小林さんの)お母さんが人魂になって飛んだ話」を例にしてお話しました。筆者の以前のブログでは、小林さんが民俗学者柳田邦男さんの心霊体験(異次元へ行きかけた話)や、第一次大戦で死んだ夫の戦死の状況を夢でアリアリと見た妻の話などをについて、どう受け止めているかもご紹介しました。小林さんはそれらを綜合して、「心霊現象など当たり前のことだ」と言っています。つまり、「その妻は自分の体験を話したのであって、学者たちはそれが正しかったかどうかの問題にすり替えたのだ。それが近代合理主義の欠陥だ」と言うのです。筆者の責任で付け加えますと、「(テレパシーは)95%はまちがっていても、正しい5%を無視する」からいけないのです。ここなのです。「5%は正しくても95%間違って入れば、そようなの現象は無い」・・・・これが近代科学の考え方ですが、それが違うのです。

 未確認飛行物体(UFO)についても同様です。NASAは、「95%は既知の物体として説明できる。しかし、どうしても説明できないものが5%残る」と言っていますね。むかし、テレビ番組で「そんなことは絶対にない」と言っていた早稲田大学教授や俳優の顔が目に浮かびます。

 まったく同感です。それに加えて筆者の考えをお話します。筆者はある神道系教団に入って霊能開発修行を受けた結果、「いやというほど」心霊体験をしました。神霊が憑依すると、神経が高ぶり、独特の「しんどさ」が襲いました。除霊する方法も教えていただきましたが、それが追い付かないほどでした。そのとき、「この独特の身体的変化をよく記憶しておこう」と思いました。そのため、今でもアリアリと思い出せます。

 こういう話を聞いたとき、よく人は「科学的に正しくないことは信じない」と言います。しかし、彼らのほとんどは科学者ではありません。それに対し筆者は科学者です。その筆者が眼に見えない世界が実在することをはっきりと体感しているのです。