「無門関」趙州狗子(1-3)

 (1)公案集「無門関」の第一則に、

趙州和尚(註1)、因(ちな)みに僧問う、

「狗子に還(かえ)って仏性(ぶっしょう)有りや」

(趙)州云く、「無」。

:ある時、一人の僧が趙州に問うた。「犬にも仏性があるでしょうか」

趙州は答えた「無い」

筆者のコメント:有名な「無字の公案」です。「無門関」の著者無門慧開(1183-1260)はこの「狗子無仏性」の公案で悟りに至ったと言われています。そのため、最重要の公案として第一則に持って来ているのですね。

 無門は「では、最も重要な関門とは何か。ここに提示された一箇の「無」の字こそ、まさに宗門に於いて最も大切な関門の一つに他ならない。そこでズバリこれを禅宗無門関と名付けるのである。この関門をくぐり抜けることができたならば、趙州和尚にお目にかかれるだけでなく、同時に歴代の祖師達とも手をつないで行くことができる」 と言っています。

 無門はさらに、「全体を疑いの塊にして、この無の一字に参ぜよ。昼も夜も間断なくこの問題を引っ提げなければならない。しかし、この無を決して虚無だとか有無だとかいうようなことと理解してはならない・・・そのうちに今までの悪知悪覚が洗い落とされて、時間をかけていくうちに、だんだんと純熟し、自然と自分の区別がつかなくなって一つになるだろう。これはあたかも唖(おし)の人が夢を見たようなもので、ただ自分一人で体験し、噛みしめるよりほかないのだ。ひとたびそういう状態が驀然(まくねん)として打ち破られると、驚天動地の働きが現われるだろう」と言っています。

1)臨済宗・黄檗宗の公式サイト臨黄ネット」:山田無文師の「無文全集」の一節を引用して、・・・「一切の衆生、悉く皆な仏性を有す」、これはまさしく仏教の根本原理である・・・犬に仏性が有るか無いか、と探究するならば、それは動物学の問題であって、精神文化としての禅の問題ではない。禅の問題は常に自己の探究にある。従って、「狗子に還って仏性有りや也た無しや」という質問は、「犬のごとき煩悩だらけの無自覚な私ごとき人間にも仏性がござりますか、いかがですか」という切実な問題であらねばならぬ仏性とは何か・・・臨済禅師はこれを「無位の真人」と言われた・・・仏性とは個性じゃない、自我じゃない、自我以前、個性以前の、生まれたままの純粋な人間性である。生まれたままは遅い。生まれんさきがよい。親も生まれんさきがよい。これを父母未生以前の本来の面目と言う、などと説けば説くほど屋上に屋を重ねることになる。やはり趙州和尚の「無」の一字、この一字以上の言葉はない。ただこれ「無」。

筆者のコメント:「仏性とは個性じゃない、自我じゃない、自我以前、個性以前の、生まれたままの純粋な人間性である」ではないのです。その理由は次回お話します。

2)千葉県正木山西光寺無玄師の解釈

 ・・・趙州に対して(修行)僧は、「一切衆生悉有仏性(一切のものには仏の性質がある)」が常識であるとされている中で質問したのです・・・この「無」は、有るとか無いとかの「無」ではないのです。虚無の「無」でもありません。強いて言えば絶対の無です。それは如何せん言葉では説明が出来ないのです。ある料理の味を知らない他人にいくら説明してもその味を理解させることは不可能です。それは本人が食べてみないことにはほんとうには分からないからです。それと同じで「無」の「味」も体験してこそ分かるのです。まさにこの無字が一大経蔵であり、大宇宙であるのです。どうですか、「無」とは何か追求してみては。あなたが宇宙、宇宙があなた、あなたが仏、仏があなたになれる最も合理的な方法ですよ・・・

筆者のコメント:仏性とは、無文師の言うような「個性じゃない、自我じゃない、自我以前、個性以前の、生まれたままの純粋な人間性、臨済が言った『無位の真人』」ではないのです。理由は次回お話します。

 一方、西光寺無玄師の言う「絶対の無」とは何でしょうか。西嶋和夫師もそう表現していましたが、意味不明の言葉だと思います。「絶対の無」などと言われても多くの人は途方に暮れるでしょう。「言葉では説明できない」とは、要するに無玄師自身も「わからない」のでしょう。これでは参考にもなりませんね(ちなみに以前お話した西田幾多郎博士の「絶対無」とはまったく別の意味です)。一方、ある人は「これは仏性とは何かを問うている」と言っています。しかし、筆者はまったく別の解釈をしています。さらに「言葉では説明できない」「体験してこそ分かる」も、何をどのようにして体験すればいいのか、取り留めがなく、参考にはなりませんね。

 重要なことは、両者の見解はいずれも、「一切の衆生、悉く皆な仏性をす」を土台にした解釈だということです。じつは道元は「そういう解釈をしてはいけない」と言っているのです。筆者もそう考えます(次回に続きます)。

趙州狗子(2)

一切衆生悉有仏性は、大乗経典の「大般涅槃経」にある言葉です(註1)。その意味はふつう、前記の山田無文師や西光寺無玄師のように、「一切の衆生、悉く皆な仏性を有す」とされています。しかし、道元は「それは誤りである」と言っています。すなわち、「正法眼蔵・仏性巻」にある言葉です。すなわち、その第2節に、

・・・世尊道の一切衆生、悉有仏性は、その宗旨いかん。是什麼物恁麼来(是れ什麼物か恁麼に来る)の道転法輪なり…(中略)・・・すなはち悉有は仏性なり・・・正当恁麼時は、衆生の内外すなはち仏性の悉有なり・・・

とあります。しかし、その解釈も人さまざまで、かつまちがっているのです。困ったものです。筆者の解釈は後回しにして、まず、

佐藤隆定さん(曹洞宗僧侶)は、

・・・お釈迦様が残した言葉「一切衆生、悉有仏性」の真意とは何だろうか。それは、中国における第6祖、大鑑慧能が弟子の南嶽懐譲に問いかけた言葉「是什麼物恁麼来」と趣旨を同じくする・・・慧能は「何者が何をしに来たのか」と南嶽に問いただすことで、自分という存在を問う大命題を南嶽に突きつけた。自分という、この存在が何者であるのか。自分とは何なのか。畢竟、存在とは何なのか・・・あらゆるものは仏であり真理であると言っているわけだ。この言葉を体現するとき、この自分こそが身も心もまさしく仏のあらわれとして存在していることを、人は明らかに知るのである・・・

と解釈しています(「禅の視点-Life」-(https://www.zenessay.com/entry/bussyou)。

つまり、「道元は人間とは何なのかと問うている」と言っているのです。筆者の解釈はは後ほど示します)。そもそもこれは、お釈迦様が残した言葉ではないのです(註1)。

次いで、 伊藤秀憲さん(愛知学院大学教授)は、「道元禅師と仏性」(愛知学院大学禅研究所紀要「禅のこぼれ話 平成15年」)で、

道元(以下同じ。一部言い回しは現代文に変更:筆者)は「正法眼蔵・仏性(第41節)」で、「衆生もとより仏性を具足せるにあらず、たとひ具せんと求むとも、仏性初めて来るたるべきにあらざる宗旨なり・・・と言っています。

伊藤:「衆生の内外すなはち仏性の悉有なり」によって衆生の内に仏性が存在するという考えが否定され、悉有(あらゆる存在)が仏性であると説かれるのです。他の箇所では、「山河大地、みな仏性海なり」とも説かれます・・・待つ想いなかれ」と述べられているように、修す必要があります・・・道元禅師が仏性の顕在を説いても、それは行じるところにおいて言っているのですから、修行が不要とはならないのです。では、その行とは何かですが、ここでは紙幅の関係から論じることは出来ませんが、それは、只管打坐(しかんたざ)の坐禅です・・・。

筆者のコメント:「仏性は内在するのではなく、すでに顕在している。悉有(あらゆる存在)が仏性である」と、ここまでは伊藤さんの解釈でよかったのです。しかし、「(しかし)そのためには修行をしなければならない」は、いかがなものでしょうか。

註1じつは、上座部仏教の「大パリニッパーナ経(長阿含経)」にも同名の「大般涅槃経」があり、80歳の釈迦が、王舎城東部の霊鷲山から最後の旅に出発し、マッラのクシナーラーにて入滅(般涅槃ほつねはん)するまでの言行、及び、その後の火葬・遺骨分配の様子が描かれている。大乗経典の 「大般涅槃経」は、それから大きく増広した、全く別の経典、つまり釈迦の言葉ではないのです。筆者がよく言いますように、仏教を理解する上でこういう視点はとても大切です。

趙州狗子(3)

 じつはここでも道元は空思想を述べているのです。答えはすぐそこに隠されています。

すなわち、・・・是什麼物恁麼来(これはなにものかいんもに来る)の道転法輪なり…(中略)・・・すなはち悉有は仏性なり・・・がそれです。空思想についての筆者の考えは、すでにこのブログシリーズで何度もお話しました。「悉有は仏性なり」とは、悉有、つまり、あらゆるモノゴトの体験こそ仏の真理(仏性)の表われであるという意味です。そして「是れ什麼物か恁麼に来る」とは、「純粋体験においては、それが何かとかの判断が起こる前の一瞬の体験のみがある」という意味です。

 それを佐藤隆定さんのように「慧能は『何者が何をしに来たのか』と南嶽に問いただすことで、自分という存在を問う大命題を南嶽に突きつけた」と解釈してはだめなのです。

 一方、伊藤秀憲さんのように「悉有仏性の意味を知るには修行が必要だ」などと言われたら、「それはないでしょ」と途方に暮れるでしょう。「紙幅の制限があるので・・・」は、「逃げ」に過ぎません。

それにしても道元は「答えを言わずに巧みにヒントを示す」のが実に上手です。まるで隠し絵のように、背景の中に「教え」が隠してあります。トリックですね。それを見付けるにはが必要です。このがわかれば、道元の言葉の真意は次々にわかります。それがわからなければ絶対に「教え」はわかりません。ここにも「禅はわかったかわからないかの世界だ」の例があります。それが「正法眼蔵」が日本古典の中で最もむつかしいと言われる理由なのです。佐藤さんも伊藤さんもあっさり道元のトリックに引っかかってしまいました。

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