論理は神理

 筆者がこのブログシリーズでさまざまな批判をするものですから、熱心に読んでいただいている読者のお一人から「人(の解釈)はさまざまです」とのコメントをいただきました。今回はそれについての感想です。

 筆者は大学院学生に対して、いつも「科学は論理です。論理は感性です」と教えてきました。そして感性は神理に通じると思います。禅の解釈についても、いえ禅だけでなく、仏教全般についても同様です。これまでに、筆者のブログの読者である岩村宗康師(真言宗住職)から禅の解釈についてさまざまななコメントが寄せられましたが、初めから終わりまで疑問を感じました。論理の筋道が通らないからです。

 前世についての体験談で大ベストセラーになった飯田史彦さんの著書についても、最初から「これはおかしい」と感じました。飯田さんは元福島大学経営学部教授でしたから、論理的記述がとても上手です(それが飯田さんの著書がベストセラーになった一つの根拠だと思っています)。しかし、著書のどれにも序文からすでに、批判に対する予防線が随所に張られていることがわかったからです。そんな論理の筋立てはあってはなりません。

 一方、筆者は、村上春樹さんのオーム真理教裁判についての新聞論評についても疑義を呈しました。村上さんは高名な作家ですから、文章力が卓越しているのは当然でしょう。村上さんは死刑廃止論者です。しかし裁判を傍聴した結果、「オーム被告の死刑には賛成だ」と言うのです。「総論賛成・各論反対」では思想にはなりません。

 瀬戸内寂聴さんや、吉村昭、津村節子さん夫妻の宗教観についても「それはおかしい」と述べてきました。宗教観と実生活が矛盾しているからです。瀬戸内さんは、あまりに長引く腰の痛さに、「神も仏もあるもか」と言いました。天台宗の住職であるにもかかわらず・・・。NHKアナウンサーの黒田あゆみさんが、瀬戸内さんを問い正したところ、「私は小説家ですから」と逃げました。「宗教観は小説のようなものだ。小説なら実生活と矛盾していてもかまわない」と言うのでしょう。吉村昭・津村節子夫妻は「墓など要らない」と言って置きながら、越後湯沢に墓を作り、吉村さんが亡くなると、津村さんは「位牌など作らない」と言いながら、毎朝吉村さんの遺影にマグカップコーヒーを供えているのです。

 数学者は、新しい学説の正否が、その証明のための数式の「論理の美しさ」から「直感的にわかる」とか。そう、美しさなのです。「零の発見」の吉田洋一さんの言葉です。あのアインシュタインは「ブックホールの存在の科学的証明など興味はない」と言っていました。「この理論を提唱したチャンドラ・セカールの数式を見てブラックホールの存在を確信したからだ」と言っています。数学者は「宇宙の成り立ちのメカニズムは、すべて数式で表せる」と言っています。以前にもお話しましたが、筆者はあるとき突然、「生命は神によって造られた」と直感しました。

 「直感的にわかる」ことは「カン」とは違います。やはり長い間の真摯な探求とそこから得られた蓄積があってのことでしょう。ことほどさように、ちゃんとした「目」を持っている人間なら、どんな思想であろうと、どんなに巧妙に論理が展開されようと「なにかおかしい」と感じるのです。「おかしいものはおかしい」のです。「人はさまざま」ではないのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です