悉有仏性(1-3)

一切衆生悉有仏性(1)

 1)「仏性」は「空」とも深い関りのある仏教の重要な概念です。この言葉を、伝統的な仏教では訓読して「一切の衆生は、悉く仏性を有する」と解釈してきました。もともと大乗経典である「大般(だいほつ)涅槃経」に書かれている言葉です。すなわち、「釈迦牟尼仏言、一切衆生、悉有仏性、如来常住、無有変易(お釈迦様が言われるには(註1)「一切衆生悉有仏性、それは常住で、変わることが無い)」とあります。ほとんどの宗派では「人には誰もが仏となる性質、つまり仏性が具わっている」と解釈されています(註2)。「だから心の在り方を正し(僧侶は修行によって)仏になりなさい」と言っているのですね。しかし道元は「この解釈は誤りだ」と言っているのです。とても重要な指摘です。すなわち、「正法眼蔵・仏性巻」第2段に、

 ・・・世尊道の一切衆生、悉有仏性は、その宗旨いかん。是什麼物恁麼来(是れ什麼物か恁麼に来る)の道転法輪なり。あるいは衆生といひ、有情といひ、群生といひ、群類といふ。 悉有の言は衆生なり、群有也。すなはち悉有は仏性なり。悉有の一悉を衆生といふ。正当恁麼時は、衆生の内外すなはち仏性の悉有なり。単伝する皮肉骨髓のみにあらず、汝得吾皮肉骨髓なるがゆゑに・・・とあります。

 にもかかわらず、曹洞宗の人たちですら、道元のこの言葉を誤解しているのです。たとえば、

曹洞宗の解釈1)「曹洞宗東海管区教化センター」HPでは、

・・・そして道元さまは一切衆生、悉有仏性を「一切衆生はことごとく仏性がある」とは捉えず、涅槃経にありますように「一切は衆生なり、悉有は仏性なり」と読み、ことごとくあるその全存在が衆であり、その内も外も全て仏性であると言うのであります。お釈迦さまの全存在、全行動が仏性であります。諸仏、諸祖の皮肉骨髄、頂寧眼晴(ちんにんがんせい:頭と眼:筆者)全存在、全行動が仏性であるということになります。さらに申せば森羅万象全てが仏性ということになります。また「仏性は成仏以後の荘厳なり」と説いておられます。一切は衆生であり、全存在が仏性であるというのであります・・・

筆者のコメント:「お釈迦さまの全存在、全行動が仏性であります。諸仏、諸祖(過去の優れた禅師たち)の皮肉骨髄、頂寧眼晴全存在、全行動が仏性である」は空疎な言葉ですね。まあ、ここまではよかったのですが、問題はそれ以下の解釈なのです。

「曹洞宗東海管区教化センター」HP(続き)

 ・・・しかし、この仏性は「弁道(はんどう)話」のところでもお話いたしましたように「修せざるにはあらわれず、証せざるには得ることなし」であります。発心し、修行し、菩提し、涅槃してはじめて現成するのであります。つめて言えば、正しい発心、修行、菩提、涅槃がそのまま仏性ということになります。
 自己のあるべき姿とは「自己をわするるなり」であります。つまり無我になりきることであります。それは自己と他己との対立を捨て去ることであり、執着を離れることであります。そうすることにより「萬法がすすみて自己を修証する」境地が開けるのであります。道元さまの言葉に修証一如というのがありましたが、実践の中に悟りがある、あるがままの実践が本来の衆生であり、全存在であり、悟りであります・・・。

筆者のコメント:とどのつまり、「仏となるには、正しい発心、修行、菩提、涅槃が必要だ」と言うのです。そんなことは今さら改めて言うことではありませんね。この著者は「仏性」を解説するのに、知識の片隅にあった「弁道(はんどう)話」とか、「自己をわすれる(現成公案編)」を引っ張り出してきて辻褄を合わせているのです。一知半解の徒がよくやることです。

次回もう一つの例を挙げましょう。

註1)よく「お釈迦様の教えの一つ」と言われていますが、何度もお話していますように、涅槃経は大乗経典の一つですからブッダの思想とは別のものです。

註2)華厳宗、天台宗、浄土宗、法華宗では「すべての衆生(人間)には仏性がある」と説いています。これに対し 法相宗では「仏性を有しない衆生もある」と言っています。さらに、華厳宗では「草木や国土などは心的作用を持たないので仏性が無い」と言うのに対し、天台宗では「これらにもすべて仏性がある」と言っています(以上「浄土宗辞典」より)。 

一切衆生悉有仏性(2)

 曹洞宗の解釈2)

 佐藤隆定さん(岐阜県美濃市霊泉寺副住職)は不思議なことに、「仏性巻」について色々な解釈をしています(「禅の視点-Life-・正法眼蔵第三「仏性」巻の現代語訳と原文」)。言うまでもなく、道元の「仏性」についての考えは一つであり、「仏性巻」は首尾一貫しています。

 佐藤さんの解釈①総合的解釈(「正法眼蔵第三「仏性」巻の現代語訳と原文Part①」より)・・・道元禅師が「悉く仏性を有する」と読むことに強い懸念をあらわすのは、「有する」と言ってしまうと、あたかも仏性というものが物体・非物体を問わずとも実際に存在し、それを我々人間が実際に持っているような感覚を生じさせてしまうからだと思われる・・・(中略)・・・仏性と言ったとき、やはり私たちは仏性というものを心と同じようなイメージで捉え、自分のなかに仏性というものがあるのだと錯覚してしまいかねない。または、「仏になる性質」が自分には具わっているのだという認識を持つかもしれない。しかし道元禅師はそれを断じて許さないのである。仏というものが、今の自分とは別にある深淵な境地であるとか、高度に位置する精神状態であるといった理解を、道元禅師は一刀両断に切り捨てる。自己と仏とを別物に捉え、仏や真理といったものを得るというような理解は、この語の真意ではないと。つまり自己と仏が同一のものであり、あらゆるものを仏のあらわれとして捉えることが理解のベースになるわけだ・・・

筆者のコメント:佐藤さんは「あらゆるものが仏の命の表われである。仏性とはその仏の命のことだ」と解釈しているのです。しかし、道元はそんなことを言っているのではないのです。

佐藤さんの解釈②(「正法眼蔵第三仏性巻の現代語訳と原文Part②」)

 (「正法眼蔵・仏性」第2節について)お釈迦様が残した言葉「一切衆生、悉有仏性」の真意とは何だろうか。それは、中国における第6祖、大鑑慧能が弟子の南嶽懐譲に問いかけた言葉「是什麼物恁麼来」と趣旨を同じくする。慧能は「何者が何をしに来たのか」と南嶽に問いただすことで、自分という存在を問う大命題を南嶽に突きつけた。自分という、この存在が何者であるのか。自分とは何なのか。畢竟、存在とは何なのか。

筆者のコメント:大鑑慧能と南嶽懐譲のやり取りについては、数回前のブログでお話しました。

佐藤さんの解釈③(「正法眼蔵第三仏性巻の現代語訳と原文Part③」)

 ここ(「正法眼蔵・仏性」第10節)では、四祖大医道心禅師と五祖大満弘忍禅師の問答をとりあげ、仏性とは何であるかを示そうとしている。特に、道元禅師が強く伝えようとしているのは「無仏性」という言葉。仏性について学ぼうとするものに、仏性とは「無」であると道元禅師は言う。「無」が指し示すものとは一体何なのか。

この問答とは、(以下佐藤さんの現代語訳)、

大医道心「姓は何という?」

大満弘忍(当時は子供)は答えた。「姓は有です。けれど、これは世間でいうところの普通の姓ではありません」

大医道心「普通の姓ではないというと、それは一体何という姓なのだろうか?」
大満弘忍「仏性という姓です」
大医道心「仏性などというものは無いぞ」
大満弘忍「あらゆる存在は『空』ですから、仏性を『無』と言うこともできるでしょう」

を指しています。

筆者のコメント:佐藤さんのこの解釈も間違いです。

 佐藤さんの「仏性」の解釈がさまざまなのはどういうことでしょう。要するに基本がわかっていないのです。

一切衆生悉有仏性(3)

  曹洞宗の解釈3)

 伊藤秀憲さんの解釈:「道元禅師と仏性」(愛知学院大学禅研究所「禅のこぼれ話」2015)

・・・誰もが仏心(仏性)を持っていますから、皆、仏様です」と説く方がありますが、本当に誰もが仏様なのでしょうか・・・道元禅師は「仏性を持っている」とは説かれないし、また、我々は本来仏でもないのです・・・道元禅師は「仏性は本来具わっていたり、外からやって来るものではない」と言うのです・・・ すでに顕れているのであれば、「修行は不要」となります・・・しかし、(道元禅師が)「仏性の道理は、仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、成仏よりのちに具足するなり。仏性かならず成仏と同参するなり」と書いているように、仏性は成仏以前に具わっているのではなく、成仏と同時であるというのです。本証(仏性)を実証するには、「正法眼蔵・弁道話」で「修証これ一等、修のほかに証を待つ想いなかれ」と述べられているように、修す必要があります。修のほかに証はなく、修が即ち証であります。本証の上において実修すること、それが本証を実証することになるのです。修を離れて、換言すれば、自己を措いて別に仏性が顕在しているわけではありません。道元禅師が仏性の顕在を説いても、それは行じるところにおいて言っているのですから、修行が不要とはならないのです。では、その行とは何かですが、ここでは紙幅の関係から論じることは出来ませんが、それは、只管打坐(しかんたざ)の坐禅です。

筆者のコメント:筆者の責任によってかなり要約しましたが、要するに伊藤さんは道元の言葉を「仏性は本来具わっていたり、外からやって来るものではない。修行が必要である。修行とはひたすら座禅することだ」と解釈しています。この考えは全く見当はずれですし、「ひたすら座禅せよ」では、わざわざ道元禅師が「仏性巻」を書く必要もないでしょう。

次回は筆者の考えをお話します。ただし、解釈ではなく「ヒント」です。

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