読者の池田さんから次のようなご質問がありました。他の皆さんにも参考になると思いますので、ここで改めて取り上げさせていただきました。
(池田さん) ・・・ブログ拝見いたしました。
質問させていただきます。
五蘊(ごうん)に関して、中野様のご見解では、機能としての知覚そのものも五蘊(受)に入るのでしょうか。入るとして、「知覚が空」とはどういうことでしょうか。
どうぞよろしくお願いいたします・・・
筆者のコメント:よく勉強していらっしゃると思います。ただ、池田さんのように「五蘊はみな空」と解釈している人は多いですね。しかも、相当の「権威」も、さらなる誤りを犯しています。たとえば、
1)ネットの「四字熟語辞典」では、
この世の全ての存在や現象は、実体などなく全てのものは空であるという仏教の言葉。
「五蘊」は人の体と精神を構成する五つの要素のこと。全ての物質をいう「色」、感覚をいう「受」、心の中に浮かぶ像をいう「想」、欲求をいう「行」、意識をいう「識」。
2)曹洞宗長谷寺HP
五蘊皆空とは:私たちの身心は五蘊よりなるもので、定まった本体がなく無我であることを言う。
五蘊:我々の存在を含めて、あらゆる存在を5つの集まりの関係においてとらえる見方。物と心のあつまり。物質と精神。五蘊とは仏教で物質と精神とを5つに 分類したものをいう。環境を含めての衆生の身心を5種に分析したもの。色 受 想 行 識 の5つである。
色 物質一般 あるいは身体。身体および物質。
受 感受作用 感覚・単純感情を言う
想 心に浮かぶ像で、表象作用のこと
行 意思 あるいは衝動的欲求に当たるべき作用
識 認識作用 識別作用 区別して知ること。意識そのもの
筆者の解釈:
以前のブログ「そもそも五蘊の解釈がまちがっているのです」(2015/11/7)で、次のように解釈しました。すなわち、
色蘊 – 人間が認識する対象。すなわちモノやコト(たとえばバラ)
受蘊 - モノ(バラ)を認識する、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、皮膚などの)感覚
想蘊 - (「あれはバラだ」とする判断のための)知識
行蘊 - 「バラを取りたい」などの気持ち
識蘊 – 「きれいなバラだ」と判断する価値基準。
つまり、五蘊とは人間の認識作用全体であり、「五蘊のすべてが空である」のではなく、「五蘊により認識したモノやコトは空である」 という意味です。池田さんは「五蘊のすべてが空である」という通常の解釈に従っていますから、「(五蘊の一つである)受(感覚)も空なのか」となり、混乱されているのです。
ご返信ありがとうございます。
般若心経で言っている五蘊皆空は五蘊そのものではなく
「五蘊がとらえたもの」というご見解をいただきありがとうございます。
そこでさらに疑問に思っていることなのですが、
なぜ「行深般若波羅蜜多時」となっているのでしょうか。
日常生活で五蘊が捉えたものなら、ご説明のように「バラ」を例にあげてもいいと思うのですが「行深般若波羅蜜多時」 に五蘊が捉えたものは「バラ」のように目に見えるものではないような気がします。 つまり深い瞑想時に気づいたということは、
通常は、体の外側の物質など認識するはずもなく、体の内側の事と解釈する方が自然だと思うのですが、その辺はどのようなご見解でしょうか。
「波羅蜜多」の前に更に「行深」が付いている様な状態のときに想いや判断や気持ちや認識作用が湧いていたとは思えないのです。
行深般若波羅蜜多時に 五蘊がとらえたものは、体の内側のことでしょうか。もしくは外側でしょうか。内側にしてもなぜ、認識作用が起きていたのか、
外側なら、 なぜわざわざ「行深般若波羅蜜多時」にしたのかがさらに疑問です。 よろしければご見解をお願いいたします。
少し語句を深読みし過ぎていらっしゃるようですが、改めて後ほどブログで述べさせていただきます。