行深般若波羅蜜

池田さんからの質問(2)

 (池田さん)ご返信ありがとうございます。
般若心経で言っている五蘊皆空は五蘊そのものではなく、「五蘊がとらえたもの」というご見解をいただきありがとうございます。
そこでさらに疑問に思っていることなのですが、
なぜ「行深般若波羅蜜多時」となっているのでしょうか。
日常生活で五蘊が捉えたものなら、ご説明のように「バラ」を例にあげてもいいと思うのですが「行深般若波羅蜜多時」 に五蘊が捉えたものは「バラ」のように目に見えるものではないような気がします。 つまり深い瞑想時に気づいたということは、通常は、体の外側の物質など認識するはずもなく、体の内側の事と解釈する方が自然だと思うのですが、その辺はどのようなご見解でしょうか。「波羅蜜多」の前に更に「行深」が付いている様な状態のときに想いや判断や気持ちや認識作用が湧いていたとは思えないのです。行深般若波羅蜜多時に 五蘊がとらえたものは、体の内側のことでしょうか。もしくは外側でしょうか。内側にしてもなぜ、認識作用が起きていたのか、外側なら、 なぜわざわざ「行深般若波羅蜜多時」にしたのかがさらに疑問です。 よろしければご見解をお願いいたします。

 筆者のコメント:多くの仏教家が、他人の解釈を鵜吞みにすることから始めているのに対し、池田さんが語句を厳密に理解しようとされていらっしゃるのには同感です。

 まず、「五蘊が皆空であること」を照見したのは、もちろん観世音菩薩ではありませんね。

 つぎに本題です。池田さんのおっしゃる

 「深い瞑想時に気づいたということは、通常は、体の外側の物質など認識するはずもなく、体の内側の事と解釈する方が自然」について。この人が気付いたのは「真の実在とは何か(真理)」という哲学的課題です。「バラを見た」などという、体の内外での認識とは関係ありません。「行深般若波羅蜜多(真理とは何かを深く考えていた時)」の表現と符合しますね。なお、「般若波羅蜜多時」とは、必ずしも瞑想していた「時」ではありません。「深く思考を巡らしていた時」です。

 以前にも書きましたが、あの西田幾多郎は、まったく独自に、禅で言う「空」理論と同じ思想に達しました。西田によりますと、「(旧制)高校生時代に、真の実在とは何かを『パッ』と感得した」とか。瞑想していた時ではありません。これでおわかりでしょう。「バラを見ていて感じた」のではなく、抽象的思考によってわかったのですね。それが哲学というものでしょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です