インパール作戦の責任(1-3)

 1)筆者がこのブログシリーズで、多くの仏教研究家の言説を批判するものですから、ある読者から「解釈は人さまざまです」と言われました。筆者は、これまでの日本の僧侶や仏教研究家の仏教に関する誤った解釈があまりにも多いことを知り、あえて批判のブログを書き続けています。今回の話題は、禅とも仏教とも関連はありませんが、筆者がモノゴトを見る視点の例として御理解いただきたいと、掲載させていただきます。

 筆者は二十年来、あの無謀で悲惨な太平洋戦争はなぜ引き起こされたかについて、多くの資料に当たり、筆者なりに真剣に考えてきました。なにか今でも続く日本人の体質があるのではと考えたからです。太平洋戦争の兵士の死者250万人・一般人80万人。その内、戦死の原因の7割が、餓死または極度の栄養不良による疫病死という悲劇だったのです。

 インパール作戦(1944/3-1945/2)は、動員兵力9万人の内、じつに3万人が戦闘以外の餓死や疫病死によって亡くなり、「史上最も愚劣な作戦」と言われています。この作戦については、戦後、かろうじて生き残った兵士など、ごく一部の人しか知りませんでした。それを世に知らしめたのは、当時陸軍報道班員としてビルマにいた高木俊朗さんです。高木さんはビルマで戦争の悲惨さ以上に、軍中枢の無責任や腐敗・傲慢を実感し、「これでは多数の無惨な戦死者が浮かばれない」との思いから詳細な告発記録を世に出しました(「インパール」「抗命」「憤死」「戦死」「全滅」すべて文春文庫にあります。)最近では、NHKの特別チームが精力的な取材を行い、NHKスペシャル「戦慄の記録インパール」を放映する一方、書物としてもまとめ、2018年岩波書店から出版しました)。

 以下は、戦後イギリス軍の調査(註1)に応じて語った、ビルマ方面軍の河辺正三司令官と、その下部機構である第十五軍司令官牟田口廉也中将との会話の記録です。この会話が行われた6月5日は、すでに戦局が絶望的になったばかりか、いよいよ恐ろしい雨季が始まった時期です(註2)。

 河辺は、作戦続行か否か、いよいよ判断を下さな良ければならないと考えていた。6月5日、前線近くの牟田口司令官を訪れ、二人だけで話し合った。しかし、中止の是非については一切触れなかった。2人は戦後のイギリス側の尋問(上記)に、

牟田口:「私は河辺司令官に対して、作戦が成功するかどうかは疑わしいと包み隠さず報告したいという突然の衝動を覚えたが、私の良識がそのような重大な報告をしようとする私自身を制止した・・・。

河辺:「私は作戦の成功の可能性について牟田口司令官の本当の気持ちと見解を知りたいと思っていた。牟田口司令官は悲観的な報告は一切しなかったが、彼の引き締まった表情と間接的な増援の要求から。この作戦の成功に対する彼の深い懸念を知った。それ故に私も同じ懸念を持ったが、私たちはお互いにそれを伝えず、バレル方面での膠着状態を打破して作戦の成功へ向かうために必死に努力するよう励まし合った。なぜなら、任された任務の遂行が軍の絶対原理だった(以下略)。

筆者のコメント:いかがでしょうか。牟田口と河辺のこの会話の裏には、唾棄すべき彼らの体質があったのです。「良識が私自身を阻止した」などと、よく言えたものです。たんに出世欲です。当時の軍人にとって「作戦を中止した人間」との烙印は、昇進に重要なマイナス点になるのです。それゆえ、「中止」を決して自分からは言わずに、「相手に言わせたかった」のです。いくら牟田口が「良識」などと言葉をすり替えようと、見え見えなのです。本気で良識などと考えていたとしたら牟田口の精神が疑われるでしょう。

註1 戦後イギリス軍によりこの作戦に関与が深かった17人の日本人指導者に尋問をした。その調書はロンドンの帝国戦争博物館に保存。

註2 大本営によってこの作戦が正式に中止されたのは7月1日で、この一か月の遅れこそ、本作戦が「戦慄すべきもの」になった最大の要因と考えられます:筆者。

 2) 筆者は長年、なぜあの無謀で悲惨な太平洋戦争が起こったか(註3)について、調べてきました。それが今も続く「日本人の体質によるもではないか」と考えたからです。日本陸軍の官僚化、観念的思考によることは、多くの識者が指摘しています。それらについては高木俊朗さんの著作や、このNHK取材班がまとめたものをお読みください。以下は筆者独自の視点というわけではありませんが、重要な記事ですからご紹介します。

 牟田口は死ぬまで「私は決して大本営や南方方面軍の意図に背いたことはない」とか、「私はまちがっていなかった」と言い続けました。しかし、天はそれを許しませんでした。

牟田口司令官お付きの斎藤博圀少尉が当時の牟田口とその幕僚たちの会話を詳細に書き残しているのです。以下はNHK取材班が見つけ出した斎藤さんの日記から。

 ・・・牟田口中将は平生(将校官舎の昼食会などで)「盧溝橋(事件)は私が始めた。大東亜戦争は、私が結末を付ける」とよく訓示されました・・・経理部長さえも、「補給はまったく不可能」と明言しましたが、司令部の全員に大声で「卑怯者、大和魂はあるのか」と怒鳴りつけられ、従うしかない状態でした。牟田口司令官から作戦参謀に「どれくらいの損害があるか」と質問があると「はい、5000人殺せば陣地を取れると思います」との返事に「そうか」でした。最初は、敵を5000人殺すのかと思って参謀部の将校に訪ねたところ、「それは味方の損害だ」とのこと。まるで虫けらでも殺すみたいに、隷下部隊の損害を表現するその傲慢さ、驕り、エリート意識、無神経さ・・・

 斎藤少尉は九死に一生を得て生還しました(NHK取材班が調べた時点でも、斎藤さんは存命でした)。彼はこの貴重な記録が連合国に没収されたり失われるのを怖れ、帰国直前に、戦地で書き綴った上記の日誌やメモを、知人のタイの大学教師に託しました。戦後再びタイ・バンコクを訪れ、その人から日誌を受け取ったといいます。この斎藤少尉の強い正義感と執念が、牟田口らによる戦後のいかなる「言い訳け」も許さなかったのです。斎藤少尉は牟田口を「売名的であった」と断定しています。それにしてもこの日記を見つけ出したNHKもすごい。

 戦局が悪化したころ、牟田口も前線近くへ司令部を移しましたが、毎日まず、「神々に戦勝を祈願する祝詞奏上から始めた」と斎藤少尉は記録しています。観念論も行き着くところまで行って神がかりになったのです。それにしても斎藤博圀少尉の証言は、インパール作戦の責任を歴史のかなたへ追いやってしまうのを防ぐ決定的な鎖です。

註3〇ガタルカナル島の戦いの死者:動員数31,400人の内、戦闘によるもの6,000人、飢餓・強度の栄養不良による疫病によるもの15,000人

〇ニューギニアの戦い(1942-1945):動員数:陸・海合わせて225,000人の内、戦死者190,000人(ここでも大部分が飢餓による)。

〇フィリピンでの戦い(1944-1945)戦死者(戦闘死と戦病死を含む)340,000人。ここでも餓死によるものが多いのです。

 3)第十五軍の参謀長小畑信良少将は、陸軍のエリート養成機関(士官学校出身者のうちごく少数が入港を許される)である陸軍大学出身の数少ない兵站(人員・兵器・食糧の整備・補給修理)の専門家でした。作戦の1年前、牟田口は小畑少将以下に調査を命じた。しかし、小畑少将が出した結論は「この作戦は、戦闘の支援が困難であり、実施せざるを可とする」・・・ところが牟田口は小畑少将を更迭したのです。

 さらに牟田口は、ビルマ方面軍の下部機構第31師団長佐藤幸徳中将、第33師団長柳田元三中将、第15師団長の山本正文中将を自分の思い通りに作戦を遂行しないからと、戦争の途中で罷免したのです。自分と同じ階級の将官を罷免することなど、職制としてあってはならないことですが、上司の河辺正三大将や大本営の東条英機大将(牟田口とは情実の関係にある)に強く訴えたのでしょう(註4)。

 筆者にとって唯一の救いは、当時ビルマ方面軍の参謀で、この作戦に終始反対していた後勝(うしろまさる)少佐が戦後、「人間としての物の考え方の問題です」と言い残していることです。当時の状況がどうであろうと、「人間性が大切だ」と言うのですね。後参謀は当時31歳、最若年の参謀としてこの作戦に関与しました。詳細な情報を集め、それを分析して「この作成は無謀だ」と判断した人です(「ビルマ戦記」光人社)後(うしろ)参謀は「5月末までに終わらせなければ日本軍は崩壊する」と強く主張しましたが、「臆病者」と否定されました。この問題で筆者が救われた数少ない、「正しい目を持った」軍人です。

註4 牟田口は最後まで「私は間違っていなかった」と言い続けました。しかし、天が許さなかったのです。戦後ビルマ戦役の慰霊祭に出席すると、将兵の遺族から「あんたが牟田口か、帰ってもらおう」と口汚くののしられ、身を震わせながら退出したこともあったとか。士官学校の同期生からも「あれでよく生きていられる」とか「坊主になれ」と言われたりしたとか。河辺正三大将は、戦後ほんとうに坊主になり、全国を行脚して戦没将兵の弔問を続けたとか。ちなみに牟田口によって戦争の途中で罷免された佐藤幸徳中将は、戦後貧窮のうちに亡くなった。同じく柳田元三中将は終戦後ソ連に抑留され、1957モスクワ監獄で獄死。山本正文中将は解任の間もなく、現地で結核のため死亡。



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