正法眼蔵・有時(1-3)

1)秋月龍珉さんの解釈(1)

 秋月龍珉(りょうみん)さん(1921-1991)は東京帝国大学文学部哲学科卒。禅の修行を行い、50歳を過ぎた1972年に臨済宗妙心寺派の僧籍に入る。臨済正宗「真人会」師、埼玉医科大学教授、花園大学教授。

 筆者が、「この人は禅の要諦である『空』を理解しているかどうか」を知る基準にしているのは、「正法眼蔵・現成公案」の解釈です。秋月さんはその一節、

・・・薪、灰となりぬるのち、さらに薪にならざるがごとく、人の死ぬるのち、さらに生とならず。薪は薪の法位に住して、前あり後あり、前・後ありといえども、前後際断せり・・・を、

 ・・・(前段略)薪が燃えてしまって灰になって、もう一度薪になることがないように、人間がこの世で死んでしまって次の世で生まれ変わるというようなことはない。薪は薪としてのあり方があるように、この世の人間にはこの世の人間としてのあり方がある。そのようにして、それぞれの法位に住しているなかで、薪として、また人間として前もあり後もある。その法位の中で前後はあるが、その前後は別々で断ち切れている。だから、「一期の生死」といわれるこの私たちの一生が、死んでまた次の世に続くと考える必要はないが、「刹那の生死」といわれるような、一刹那一刹那、一念一念に、六道を輪廻して生死を繰り返しているということを否定することはできない・・・

と解釈しています。

筆者のコメント:この人は「空」の意味を理解していません。この一節は、人間の輪廻転生(生まれ変わり)の問題などであるはずがありません。輪廻転生の問題を道元がここでわざわざ言う必然性がないからです。秋月さんは、50歳を過ぎて僧籍に入り、専門の禅師になるなど、信念を持っていた人だと思います。「NHKの委嘱でゼン・マイステル(禅の大家)としてドイツに旅した」と言っていますが、こんな解釈ではどうしようもありません。

有時(2)秋山龍 珉 さんの解釈

「正法眼蔵」は最も難解な古典と言われていますが、さらに中でも「有時」はきわだって難しい部分だと言う人もいます。そこで、秋月さんの「有(う)時」の解釈を見てみます。

 原文:いわゆる有時は、時(じ)すでにこれ有なり、有はみな時なり・・・

秋月さんの解釈(「正法眼蔵を読む」PHP文庫p175):

 ・・・「有時」の巻は、一言で言うと、この「時間即存在、存在即時間」の真理を明らかにしようとするものである。私たちはふつう、「存在」と「時間」とは違ったものと考えている。まず何か存在があって、その存在が時間の中で動いているかのように考えている。たしかに「存在」と「時間」とは別の概念である。しかし実物は一つである・・・禅者は常に「朕兆未萌以前」の「絶対無」から、ものを見る。「そこからそこへ」である。そうした無(空)を、禅者は「即今(いま)・ここ・自己」の上で押さえて、これらを「無相の自己」と言う。時間も存在も、すべてそから考える。だから「無相の自己」に生きるところで「有」も「時」も見ようとする。だから「有」と言うとき、そこに「時」がある、「時」というとき、そこに「有」がある。「一方を証する時は、一方は暗し」である。それは禅者はただ「如」だけを見ているからである。そこで、「時はすでに有であり、有はみな時である」というのである。

筆者のコメント:まず、これではなぜ「時間即存在、存在即時間」なのかわかりません。「有時」の中でそれが一番重要なところなのに。秋山さんは、「禅者は『即今(いま)・ここ・自己』の上で押さえて、常に『朕兆未萌以前(自分が萌え出づる以前の兆しに立つ。つまり、でき上がる前の自分に戻れ)』の『絶対無』から、ものを見る。この『無相の自己』に生きるところで『有』も『時』も見ようとする。だから『有』と言うとき、そこに『時』がある、「『時』というとき、そこに『有』がある」と言っています。これでは説明になっていません。「即今(いま)・ここ・自己」は「絶対無」ではありません。

原文:時もし去来(こらい)の相にあらずば、上山の時は有時に而今なり(p177) ・・・

秋山さんの解釈:「無相の自己」が河を過ぎ山を上っていく。そこに時間がある。われわれは、ふつう「時間というものを、滝の水が落ちるように、川の水が流れるように、過去・現在・未来と直線的に去来するもののように考えている。しかし、そうした常識的な時間だけが時間ではない・・・いやな仕事をしている時は、時間は長く感じられる。楽しんでいることに熱中している時は、時間はアッという間に過ぎてしまう・・・「無位の真人」が山に上る時の時間を、道元は「有時の而今」と言う。「永遠の今」である。「絶対の現在」である。その「絶対の現在」のある面を概念的に抽象すると、時計のセコンドで刻むようような等質に去来する時間が考えられてくる、だから、常識的な時間の方が抽象的な時間であって、道元がここに、「上山の時は有時の而今なり」というような時間こそが、「真人」の生きる具体的な時間といえる・・・

筆者のコメント:「有時」の「時」は、秋山さんの言うような・・・ いやな仕事をしている時は、時間は長く感じられる。楽しんでいることに熱中している時は、時間はアッという間に過ぎてしまう・・・というような人間の感覚による時間の変化を言っているのではありません。そんなことは当たり前で、わざわざ「有時」で触れるはずがありません。

原文:この時(じ)この有(う)は、法にあらずと学するが故に、丈六金身(ブッダのように悟りを開いた人:筆者)は、我にあらずと認ずるなり。我を丈六金身にあらずと、逃れんとする、またすなわち有時の片々なり(p178)・・・

秋山さんの解釈:(「真人(無相の自己:本来の我)」が見た「真如(自然の本当の姿)」としての山は時である。海も時である。真人が見ている「真如」としての山海は、そうした「有時の而今」と呼ばれる「永遠の今」の「有(う)」であり、「時(じ)」である)という存在を見ないで、逆にそれを宗教や詩人の空想であるかのように思うから、せっかくの「正当恁麼時の正当恁麼人(しょうといんもじのしょうとういんもじん、真人」を見失って「私は仏ではない」と考えてしまう・・・そうした「有時の而今」を見ることができないから、あたら自分が「無位の真人」であることを見失う。それだけでなくて「自分は仏ではない、凡夫だ」などと言って逃げようとする。しかし、いくら逃げてもその人自身の「真人」は「有時の而今」の片々である・・・

筆者のコメント:・・・真人が見ている「真如」としての山海は、そうした「有時の而今」と呼ばれる「永遠の今」の「有(う)」であり、「時(じ)」である・・・とはどういうことでしょう。「ほーそういうものか、でもさっぱりわからない」と言うでしょう。

 哲学を学び、50歳を過ぎてから僧籍に入り、師匠にまでなった「それなりの人」でしょうが、こんな解釈ではどうしようもありません(筆者の解釈は後ほど)。

正法眼蔵・有時(3)

 有時(3)村上恭一さんの解釈

 村上恭一さん(1936-)は哲学者で法政大学名誉教授。

 「有(う)時」巻は、「正法眼蔵」の中でも最も難解と言われています。有は「ある」ではなく、存在と言う意味で、有時とは、「存在(現象)と時間」ともいえるでしょう。ちなみに村上さんは、著書「哲学講義」(成文堂2005)の中で、ベルグソンやハイデカーの(存在と)時間論について述べています。以下は、「道元の『有時』の巻を読む」(「法政大学紀要」)の著者注から。

・・・時間は即存在であり、存在は即時間であること。つまり、時間を離れて存在自体があるわけではなく、また存在を離れて時間そのものが独立に存することもない・・・(さらに)道元は「全世界のすべてが自己のうちにあり、全世界の個々の事物がことごとく時であることをとくと考えてみよ」と言う・・・また道元は「世界の一切は各々異なっていながら、いわば多即一として、あるいは相即的一体になって自己のうちに存する」と述べている・・・道元の言う「自己の時なる道理」とは、自己も時であって同時に一切の時が自己の時であるとの意味である・・・時は、その時、その時の今として「而今」、つまりただ今の時でしかない。そして、この「いまの時」は連なりながら時時であると言われる。言い換えると、このような非連続の時(前後裁断の時)と相即にして不離である存在は、それゆえそのつど、それ限りとしての時間的なあり方にならざるを得ないのである。このように「有時」の道理が説かれているが、意識主体としてのわれ(自己)を離れてこの論理は成り立たないのである・・・

筆者のコメント:要するに村上さんは「(道元の言う)有時とは、時間を離れて存在自体があるわけではなく、また存在を離れて時間そのものが独立に存することもない。自己も時であって同時に一切の時が自己の時である」と言っているのです。村上さんも秋山さんと同様に、なぜ時間を離れて存在はないのか、自己も時であって同時に一切の時が自己の時なのかの説明がまったくないのです。これでは大部分の人は「はあーそんなものか。でも何のことかさっぱりわからない」と思うでしょう。さらに、村上さんは「非連続の時(前後裁断の時)と相即にして不離である存在」と言っています。しかし、なぜ「存在」が前後裁断なのか、これではまったくわかりません。村上さんはそれがわからないのですわからないからこのような生硬な、つまり「わけのわからない」解釈をしているのでしょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です