正法眼蔵・有時(4)

 匿名さん(1941~)の解釈

プロフィールには「某大学名誉教授。理学博士。曹洞宗の石黒法竜老師や、臨済宗の中川宋淵老師の接心会に参禅し、現在も座禅を続けている」とあります。2008年から現在に至るまで「禅と悟り」と題するブログシリーズで、「正法眼蔵」「臨済録」「無門関」「碧巌録」「従容録」などについて詳細な解釈を試みていらっしゃいます(https://www.sets/ne.jp)。教学ともに相当な人ですね。そのうち、「正法眼蔵・有時」については、

 第2文段

 ・・・いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。 丈六金身これ時なり、時なるがゆゑに時の荘厳光明あり。

匿名さんの解釈(以下解釈):いわゆる有時について考えると、時間は即ち存在であり、存在はみな時間である。 一丈六尺の金色に輝く仏(悟りを開いた人)は時間である。有とは存在しているものだから、現象を意味している。 私たちは時の長・遠・短・促を測ってから時の存在をはじめて知るわけではない。測らずとも、刻々と変化しながら現れる現象(有)により時は現れている。

筆者のコメント:この人も「時間は即ち存在であり、存在はみな時間である」と原文を直訳しているだけです。それでは肝心の「なぜそうなのか」がわかりませんね。

 第3文段

・・・われを排列しおきて尽界とせり、この尽界の頭頭物物を時時なりと所見すべし。

解釈:わたしたちが見ている世界、私達が世界と思っているもの、それはほかならぬ、それを見ている私の現れであると考えている。しかもそのわたしの現れである様々な現象、存在は時であると言う。すなわち世界は自己の現れであり、さらに世界は時の現れであり時と自己はひとつであると考えるのである。

筆者のコメント:ここでも、なぜ「時と自己はひとつである」のかの理由がわかりませんね。

 以上、この人もなぜ、「時間は存在であり、存在は時間である」か、なぜ「時と自己は一つである」かという「有時」の根本がわかっていません。

 筆者の解釈はあとで。

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