禅はむつかしくない(4)

 読者からの「ここのブログはむつかしい」とのご指摘に恐縮しています。どうしても僧侶や研究者などの専門家向けに発信したいものですから、こういう書き方になってしまいます。しかし、本当は禅はむつかしくないのです。筆者は本格的に禅を学んで11年になります。さすがに最初のうちは苦労しましたが、「鍵」がわかってからは霧が晴れるようにわかっていきました。

 哲学についても同じ思いをしています。以前は「哲学」と聞いただけで頭が痛くなりそうでした。しかし、ていねいに読んでいるとだんだんにわかっていくものです。カントやヘーゲル、そして西田幾多郎の哲学も、わかれば簡単なのです。当然ですね。人間が考えることですから。

 「わからない」原因の一つは、哲学者たちの自己撞着的な言い回しにあると思います。さらに、彼らは「新語」を発明することが生きがいのようで、私たちはその言葉に引っ張られて混乱することも少なくありません。哲学者同士でもわからないのでは、と思います。第一、禅も哲学も「人間が生きるための知恵」ですから、いくら高尚でも、多くの人にわからなければどうしようもないです。キリストの言葉も、ブッダの生(なま)の言葉も、誰にでもわかりやすく、胸に沁みます。たとえばキリストは、

 ・・・明日のことを思い煩ってはならない。明日のことは、明日思い煩えばよい。その日の労苦は、その日だけで十分である(マタイによる福音書 (6章33~34節)・・・

と言っています。よい言葉ですね。

 本題に入ります。

 禅の要諦は、

 1)今までのモノゴトの見方をガラリと変えることです。大部分の人は「モノがあって、私が見る」という、唯物的な見方に慣れています。じつは、正しいモノごとの観かたはそうではなく、「空(くう)」の観かただと気づくことです。もっとも難解な古典と言われる道元の「正法眼蔵」も、じつはいろいろな角度から「空」思想について解説しているのです(それについては、筆者がこのブログシリーズで繰り返しお話しています)。

 「空(くう)とは何か」を繰り返し学び、自分のものにしてください。これまでとはまったく別のモノゴトの観かたに切り替えるのですから、訓練が必要なのは当然でしょう。その新しいモノゴトの観かたに従って生きるのです。そうすればどんな状況になっても落ち着いて対処でき、不安や苦しみから逃れられるのです。ブッダも、

 ・・・智慧によって見るとき、人は苦しみを厭い離れる。これが、人が清らかになるための道である(ダンマパダ277)

と言っています。

 2)もっと簡単な禅の生き方は、「こだわらないこと」です。どんな禅の教えも、結局はそこへ行き着くのです。薬師寺元管長の高田好胤師が「とらわれない心、こだわらない心、広く広くもっと広く」とおっしゃっていました。その通りなのです。薬師寺の宗派は法相宗ですが。何かあったとき、この言葉を呪文のように唱えてください。苦しい時にも悲しい時にも。無念だと思う時にも。

 学歴がどうとか、職業がどうとか、結婚しているか独身か、職場でのいざこざ、家庭内の問題、さらには病気のことも、正しい治療はもちろん受けなければなりませんが、こだわったりすると、治るものも治りません。

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