そもそも「五蘊皆空」の解釈を間違えているのです(1)
前回、龍樹(ナーガールジュナ)の「空」理論と禅の「空」理論とは違う、とお話しました。基本テーマが変わるなどということは、他の思想ではありえないことでしょう。しかし、それが起こるところが仏教なのです。それがわからないと仏教はわからないと思います。
では、一体どこで「空」理論の変化が起こったのか。前回、「中国に仏教が伝来してからだろう。中国は、『ものがない』などとはおよそ考えない国民性だから」とお話しました。今回はもう少し突っ込んで考えてみたいと思います。
「般若心経」の冒頭は、
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空
(観自在菩薩が深遠な知恵を完成するための実践をされている時、五蘊がすべて「空」であることがわかった)
ですね。その後に色即是空・・・の一節が続きます。五蘊が皆「空」であることを見極めた、と言うのですが、ここに鍵があると思います。五蘊とは、色・受・想・行・識の五つの蘊、すなわち集まりです。つまり人間の認識作用のことを言っているのです。受蘊(感受作用)、想蘊(表象作用)、行蘊(意志作用)、識蘊 (認識作用)のくわしい説明は次回以降に回して、あの中村元博士による五蘊皆空の解釈は:
・・・存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれ(観世音菩薩)は、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものを見とおしたのであった(下線筆者)・・・
となっています。中村元博士は東京大学名誉教授。わが国を代表する仏教学者であり、文字通りの碩学と筆者は尊敬していますが・・・。
ことほどさように、五蘊とは人間の認識作用だったものが、いつのまにか「モノの有る無し」になってしまったのです。この重大な思い違いは、おそらく日本で、近年に起こったのでしょう。
これで松原泰道師(M師)やひろさちやさん(H師)が「すべてのものには実体がない」と解釈している理由がわかりました。
五蘊皆空の正しい意味は、人間の認識作用の内容を言っているのであり、その対象としての「モノ」の有無の問題ではないのです。 ここは「色即是空」を解釈する上できわめて大切なポイントです(あとでくわしくお話します)。
そもそも「五蘊」の解釈をまちがえているのです(2)
前回、「五蘊皆空は、人間の認識作用のことを言っているのであり、それを『モノ』にまで拡大してしまったことが、そもそもの誤りだ」とお話しました。今回は、補足として「五蘊」について説明させていただきます。
筆者の解釈は次の通りです。
色蘊 – 人間の体(眼や耳、皮膚などの感覚器官)と、認識する対象、すなわちモノ
受蘊 - 見る、聞く、嗅ぐ、味わう、皮膚感覚などの感覚
想蘊 - (「あれはバラだ」とする判断のための)知識
行蘊 - 「バラを取りたい」などの気持ち
識蘊 – 「きれいなバラだ」と判断する価値基準。
つまり、想蘊とは、「きれいだ、バラだ」という区別判断をするための情報や価値基準。つまり、受蘊で感覚したものを想蘊が同定し、その内容を識蘊が識別・判断し、行蘊が「あれを取りたい」と思う。すなわち、「五蘊」とは、人間の認識作用(見て聞いて・・・判断し、行動する)を意味しているのです。
したがって、「五蘊皆空」とは、中村元博士や鈴木大拙博士が言うような、
・・・存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いた・・・
の解釈は誤りだということがおわかりいただけるでしょう。
五蘊とは人間の五つの構成要素のことでしょう。
一つは、色→体を構成する物資。
残りの四つは、受想行識という四つの精神作用のことです。
体を構成する物資が空だとしたら、他の物資すべてが空であることになりますね。
だから中村元先生の訳は正しいと思われます。
メール嬉しく拝読しました。もっと私のブログを広く丁寧にお読みくださればおわかりいただけると思います。上記の内山晴旦さんへの返事に書いた通りです。
ブログ拝見いたしました。
質問させていただきます。
五蘊に関して、中野様のご見解では、機能としての知覚そのものも五蘊(受)に入るのでしょうか。入るとして、「知覚が空」とはどういうことでしょうか。
どうぞよろしくお願いいたします。
池田様
重要なご質問ですから、他の人にも参考になると思いますので、改めてブログでお答えさせていただきます。
ありがとうございます。
どうぞよろしくお願い致します。