十二年籠山行-宮本祖豊師(1,2)

 1)NHK「こころの時代」(2022/6/11)。今回の放映の目的は、いまコロナや社会構造の変化で、人々の孤立が深まり大きな問題になっている。比叡山では十二年籠山という、孤独の修行があると聞き、その達成者である宮本祖豊師を訪ねて、アナウンサーが孤独への対処についてアドバイスを受けたいという目的でした。宮本祖豊師(62)は昭和59年出家得度。37歳のとき十二年籠山行を開始し、49歳で戦後6人目の満行者となる。現比叡山戒蔵寺住職。

 函館市出身、大学受験につまずいて悩んでいるとき、最澄の「願文」を読んで感動した。そして、いかに自分には徳が足りないかと痛切に感じた。そのためお坊さんになりたいと、飛行機の片道切符だけ持って比叡山延暦寺の門をたたいた。

 「願文」は最澄19歳の時の決意書で、「せっかく人間に生まれ、仏の教えに出会うことができても、善(よ)い心を持ち続けることができなければ、地獄(じごく)の薪(たきぎ)になるより他はない。それなのに、今の私は十分に正しい修行ができていない愚(おろ)かで最低の人間である。だからこそ誰よりも精一杯努力をして、多くの人を救い導いて行くことができるような強い自分にならなければならない。それまでは、この修行を決してやめることはできない(筆者の簡約)」と書かれています。宮本さんは「願文」を書いたときの最澄とまさに同年だったので共感するところが多かったと言っています。

 比叡山延暦寺では、有名な千日回峰行(7年かかる)の他にも十二年籠山行があります。その行は十二年間延暦寺の末寺浄土院から一歩も出ないで、ひたすら修行に励む。途中でやめることは許されない。江戸時代から続く修行で、途中で病死してしまう僧も少なくない。中には満行に至らず、中止することもできず、辞院(山を下りる)した人もいたとか。十二籠山行をするには、それ以前に「好相行」と呼ばれる修行をなし終えなければならない。眠ることなく、一日3000回五体投地の礼拝を行い、仏たちの名前を呼ぶ修行。普通の人は約3か月で仏の姿を見るという。しかし、宮本さんはどうしてもそれが叶わず、じつに足掛け3年かかって阿弥陀仏のお姿を見た(平成9年)。それがたんなる幻覚か、思い込みかを最終的に天台座主が見極めて、「満行」かどうかを決定するという。

2)十二年籠山行-宮本祖豊師(2)

NHK武田アナウンサーの質問1)「いま日本ではコロナや高齢化による一人暮らしで孤独が大きな問題なっています。宮本さんは12年もの間、山に籠っておられましたが、孤独を感じることはありませんでしたか」。宮本師「一般の人が山に籠れば孤独を感じるのを免れないでしょう。しかし比叡山浄土院での修行では、朝3時か4時に起きてから、読経、最澄大師へ食事を差し上げること、掃除などなど、夜9時か10時に就寝するまでこと細かく作法が決められているし、鳥や動物の声しか聞こえない静かな環境で、そういう自分を見つめ、一歩でも二歩でも心が向上するようにしていますから、孤独は感じません。我(が)が強ければ強い人ほど孤独を感じるはずです。(孤独感を無くするためには)自分の我を壊すのです。(自分と他者を隔てる)垣根を越えて広げることで孤独感・孤立感は無くなっていくのです」と。

 なぜ宮本師は、「私は好相行を満行するのに3年もかかったのか」と先輩僧侶に尋ねたところ、「たぶん君はあまりにも頭で考える人だったからろう」と言われたとか。

NHK武田アナウンサーの質問2)

 「宮本さんは2005年に十二年籠山行を終えてから比叡山を下り、現在自坊で講演などをしていらっしゃいますが、じつは2年前にガンのステージ4(末期)であることが分かったそうですね。ガンになったことをどう受け止めていますか」。筆者は固唾をのんで答えを待ちました。こういう時、人はなにかと恰好を付けて、本心を偽るものだからです。宮本さんは、一瞬の沈黙後、「人間はいつかは死ぬものですし、ガンになったからといって、それは一つのたんなる現象ですので、ガンになったという自分の心を見つめて、一歩でも半歩でも自分を高めていく。それがまた楽しみでもあります。そういう意味でガンになったこともけっして悪かったわけではない。若い時から死というものに向かい合いながらの修行でしたから、とくにガンになったからといって生活が変わったりとか、気持ちが変わったりとかはないです」と。さらに、武田アナウンサーの「これからの日々をどう過ごしていきますか」との質問に対して、宮本さんは「何も変わらない・・・・。最後まで自分を見つめて半歩、一歩でも自分自身を高めていく、自分がこれまでの修行で得た良さというものを伝えていく。そういう時間を費やしていくだけですね」。

筆者のコメント:この人は本物のようです。筆者はこれまで、何人かの千日回峰行達成者の言葉を聞いたり、本を読んだことがありますが、いずれも「いまいち」でした。厳しい修行を成し遂げた人の言葉とは思えなかったからです。

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