神様はいらっしゃいます(3)

 読者の斎藤利幸さんが、筆者のブログ「神様はいらっしゃいます(2022・1・22)」を読んで、

 ・・・・・・凄く心にしみる話ですね。
ただ、「神」という言葉を使うときには、どのような内容を持たせているのかを教えていただかないと、混乱してしまいます。なぜならば、「神」に対するイメージ(漠然とした思い)は各人で異なるでしょうし、キリスト教のように、全知全能の存在を示すとすれば、仏陀の教えとは決定的に矛盾すると思うからです。
(生意気なことを言って、失礼しました。)・・・・

筆者のコメント:失礼ではありません。斎藤さんの率直なご意見です。まず、

1)神とはいかなる定義もできない存在です。「全知全能」でもあり、上記のブログでお話した「おばさん」の目の前に現れることもあります(註1)。

2)「仏陀の教え」と仏教を区別しなければなりません。「仏陀の教え」はその後2000年の間にどんどん拡大したことを認識することが大切です。ここがキリスト教やイスラム教とは決定的に違うところです。キリスト教には聖書、イスラム教にはコーランというように、教えは一つです。拡大などもっての外でしょう。仏教の思想史についてはすでにブログでお話しました。要約しますと、「仏陀の教え」そのものは、スッタニパータなど、初期仏教にのみ現れていると考えられます。その数百年後、インドの哲学者たちによっていわゆる大乗経典類が作られました。浄土三部経や、大般若経典類、華厳経や法華経などです。その後さらに拡大し、唯識思想や真言密教が成立しました。ことほどさように仏教と言っても内容はきわめて多様なのです。それゆえ、たしかに「仏陀の教え」そのものには仏(神)については避けてありますが、華厳経の大日如来は宇宙の主宰神ですし、禅思想の根幹はまぎれもなく「仏」です。ですから仏陀の教え=仏教とすれば、全知全能の存在と決して矛盾しないのです。

註1 ただ、神の名を騙る低級霊もあるとことも認識しなければなりません。新宗教の「神」など、ほとんどその類だと思います。

斎藤さんのご返事:お答えありがとうございました。他の部分も参照させていただきましたが、塾長様の「神」の概念(内容)はキリスト教などでいう「唯一絶対神」であるということでよろしいのでしょうね。そのように解することと、ブッダが最後に教えを説かれた「汝らは、自らを燈明とし、自らを依処として、他人を依処とせず、法(ブッダが説いたもろもろの教え)を燈明とし、法を依処として、他を依処とせずして住するがよい。なにゆえに云々」という、「自燈明、法燈明」仏教の最も根本的な教えとの関係はどうなるのでしょうか。ご教示いただければ幸いです。

筆者のコメント:おっしゃるように、筆者の考える神は「唯一絶対神」です。仏陀が「自燈明・法燈明」とおっしゃったのは、もちろん正しく、筆者など、仏陀の教えでさえ、疑問に思うところは受け入れていません。また、「仏(神)というような、よくわからなものに依拠してはいけない」とおっしゃったのは、あくまでも教えの方便であり、決して仏(神)の存在を否定しているのではないと思います。何よりの証拠は、上記のように、仏陀のはるか後代の弟子たち(インド・中国・日本の哲学者)は、あっさりと仏(神)の概念を取り入れていることです。それが自然の流れでしょう。さらに、仏陀自身も数々の神霊体験もしているはずです。なお、筆者は「あらゆる宗教の基本には神がある」と考えています。

3 thoughts on “神様はいらっしゃいます(3)”

  1. ご教示有り難うございました。
    いろいろと質問したいことがありますが、その中でも一つだけお聞き致します。
    塾長様のお考えでは、神=唯一絶対神(あらゆるものから超越し、同等のもの(存在)は、絶対にあり得ない存在)ということでよろしいのですね。そして、全てを創造された全能者(「唯一」=他はないのであるから、当然この世をあらしめた創造者になると思います)であると言うことでしょうか。
     もしそうであれば、我々人間は神の非創造物のひとつである、ということになる(私のキリスト教等一神教の神の概念です。)のでしょうか。
     よろしくご教示くだされば幸いです。

    1. 斎藤様
       そのとおりだと思います。とても大切なことですから、また改めてブログでお話させていただきます。

  2. えびすこさま
     とても重要なご指摘だと思います。下記の斎藤様のコメントとも関係がありますので、後ほどまとめてブログでお話させていただきます。

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