西田哲学と禅

         中野禅塾だより (2015/11/28)

西田哲学と禅(1)

 筆者がこのブログで繰り返していますように「空」の理論とは「モノがあって私が見る」という見かたと異なり、「私がモノを観る(聞く、味わう、嗅ぐ、触れる)という体験こそが実在だ」というモノゴトの観かたです。じつは前著「禅を正しく、わかりやすく」にも書きましたように、西田幾多郎の「純粋経験」学説も「空」理論とほとんど同じなのです。

 西田幾太郎(1870-1945)は、元京都大学教授。わが国初の本格的な哲学者と言われ、西田哲学という、今でも個人名で呼ばれる独自の思想体系を確立しました。西田には「善の研究」という、旧制高校生に広く読まれた著書があります。絶対矛盾的自己同一という、当時の高校生には「よくわからないが、なにかかっこいい」言葉が「高校生的」だと受け取られたのでしょう。西田の思想のエッセンスは、

・・・我々が実際に感覚しているもの、それが物(モノ:筆者)自身である。たとえば、色を見、音を聞く刹那・・・この色、この音は何であるという判断すら加わらない前の、少しも思慮分別を加えない、真に経験そのままを言い・・・この直接(直覚的)経験こそ物や心の認知の基礎である。「この世の中のあらゆる実在、草木も石も山も、動物も植物も人も、その精神もすべて我々の意識現象(註1)、すなわち純粋経験(直接経験)の事実あるのみであり、客観的物質世界というのは単に思惟の要求より出た仮定に過ぎない(一部を抜粋)・・・

とうものです。このように西田の考えは禅の「空思想」と基本的には同じです。西田はあの鈴木大拙と同じ金沢の出身で、古くからの友人であり、鈴木は禅、西田は哲学とジャンルは違っても「お互いに強く影響を受けた」と鈴木自身が語っています。筆者は「善の思想」は「禅の思想」だと考えています。
 西田の思想はカント以来のドイツ観念論哲学ともよく似ています。西田自身は「旧制高校生のころから独自に考えていた」と言っています。思想とは一人の人間が突然思い付くものではなく、それ以前に必ず類似の思想があり、それらの上に構築されるものなのでしょう。筆者の尊敬する元東京大学教授橋田邦彦博士も「私の考えには独創的なものはない。以前からあった考えを少し進めただけだ」と謙虚に言っています。橋田博士は若い時道元の「正法眼蔵」を解釈したいと思い立ちましたが、原本にはとても歯が立たず、道元の死後弟子詮慧(せんね)によって書かれた解説書(これさえ原本:筆者)を東京大学図書館で見付け、それを手掛かりに20年間にわたって研究してようやく理解したという真摯な努力を積み重ねた人です。注目しなければならないのは、当時すでに澤木興道師、岸沢惟安師などの著名な禅師が活躍していたにもかかわらず、それらに依らず、独自に解釈を目指したことです(岸沢惟安師の講演に基づく著作集を筆者も読んでみましたが、まったく理解できませんでした)。

註1 意識現象という考えは、仏教の唯識思想と基本的には同じです。いずれお話します。

西田哲学と禅(2)絶対矛盾的自己同一

 前回、西田幾太郎の哲学と「空理論」は基本的には同じだと述べました。今回は有名な西田博士の思想・絶対矛盾的自己同一についてお話します。結論から言いますと、絶対矛盾的自己同一とは「色即是空」のことなのです。西田博士が禅の鈴木大拙博士と高校時代からの親友同士だったことはよく知られています。学問的にも「お互いに影響を受けた」と言っています。西田博士はわが国の哲学界で「西田哲学」と個人名で呼ばれる思想を作り上げた稀有な人です。京都大学にはその後「西田学派」と呼ばれる体系ができました。
 絶対矛盾的自己同一の問題に入る前に、西田博士の最初の著書「善の研究」(岩波文庫)について触れます。同書は旧制高校生が意味も分からないまま、その言葉のカッコよさから「愛読した」と言われています。「善の研究」とは、人間の善行為の哲学的解説という意味です。以前お話したように「善の研究」には、

・・・我々が実際に感覚しているもの、それが物(モノ:筆者)自身である。たとえば、色を見、音を聞く刹那・・・この色、この音は何であるという判断すら加わらない前の、少しも思慮分別を加えない、真に経験そのままを言い・・・この直接(直覚的)経験こそ物や心の認知の基礎である。「この世の中のあらゆる実在、草木も石も山も、動物も植物も人も、その精神もすべて我々の意識現象、すなわち純粋経験(直接経験)の事実あるのみであり、客観的物質世界というのは単に思惟の要求より出た仮定に過ぎない(一部を抜粋:筆者)・・・

とあります。まさしく「空理論」と同じですね。

 禅では「色即是空・空即是色」というふうに、私が見たモノゴト、つまり色と、「空」、すなわち体験として観た「モノゴト」が同じ(正確にはちょっと違うのですが、くわしくは後ほどお話します)である、と言います。つまり、「色」と「空」は同じモノの両側面です。しかし、様相はまったく違いますね。それを禅では「不一不異」と言います。「同じではないし別でもない」という意味です。前に禅がカントらの理論と似ていると言いましたが、決定的に違うのはここなのです。すなわち「色」も否定していないところです。西田博士の言う「絶対矛盾的自己同一」とは、自己の両側面「色」と「空」は絶対矛盾的関係にあるが同一だということで、これが正しい意味なのです。いかがでしょうか。

 以前紹介したある人がブログで、
 ・・・ゆえに大拙氏の「即非の論理」はまったくのナンセンスで、そのナンセンスなものをヒントにして作成した西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」なる論文は、茶番としか言えない・・・
と厳しく批判しています。この人はさらに、
 ・・・わたしも大拙氏と同じく、師の印可を受けていない自称悟得者である。しかし、大拙氏の文言と、その誤りを指摘した文言のどちらが正でどちらが非であるかは、すこしでも禅を齧ったことのある者が見れば一目瞭然で分るはずである・・・
 
 筆者の上記の解釈で西田博士の考えがいかに革新的かお分かりいただけるでしょう。ちなみに、鈴木大拙博士は自称悟得者などとは一度も言っていません。

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