悟ると奇跡が起きる

 筆者はこれまでに、「禅の要諦は、1)こだわりを捨てる。2)概念の固定化を避ける。3)価値判断をしない。・・・・」と言って来ました。筆者の畏友で熱心にブログを読んでいただいている人が「もっとやさしく」とくり返すものですからそう言ったのです。最近、「4)諦観もその一つ」と言いましたら、「本当に悟りに至った人など現代にもいるのか」と疑問を呈せられました。しっかり心に留めておいていただきたいのは、それらはあくまでもエッセンスであって、「悟り」とは別です。

 現代の、ある名の知られた仏教学者が「・・・・私にとって早朝座禅は、ほとんど雑念妄想と遊びたわむれる時間になっている。いや、無念無想の時間でなければならぬと錯覚(太字筆者。以下同じ)していた時期もあったが、その誤りに気づいてからは気分が晴れた。雑念妄想によってこそ、思考の創造的飛躍は準備されると悟ったからである・・・・むろんそれは、まだ生悟りのままだ。さればいたし方もない。今度は外界を歩きに歩いて、この雑念妄想の網目に亀裂を入れ筋道をつけることで、ひそかにひとり仕事の新展開をはかるのみである・・・・と、よくわからない論理で早朝5分(!)の座禅を勧めています。もちろんそれは生悟りでしょう。

 本当に悟りに至ったかどうかは、奇跡が起こったかどうかです。前にも紹介しましたが、あの高野山には、選ばれた修行者だけが許される悟りのための特別な修法があります。虚空蔵求聞持法と言い、〈虚空蔵菩薩の真言〉という短い真言を1日1万回なら100日、2万回ずつなら50日間、つまり都合100万回唱えるというものです。空海が土佐の御厨人窟(みくろど)で行った修法と同じです。1日2万回真言を唱えるということがどれほど大変なことか!やってみればわかります。食事やトイレの時間を除いて8時間もかかるのです。しかも、もしやり遂げたと思っても奇跡が起こらなければ失敗で、また1からやり直さなくてはならないのです。これまでたくさんの修行僧が挑戦しましたが、成功したのはわずかに数人でした。それは成功者だけが納める感謝のお札の数からわかります。このように、悟りには「生悟り」とか、「悟ったと思う」はありません。はっきりと自分でわかるのです。

 じつは、頂きに達するには別の道もあります。筆者はそれを実践しました。そして確かに「さまざまなふしぎなこと」が起こりました。

4 thoughts on “悟ると奇跡が起きる”

  1. 実際にどんな現象がありましたか?
    管理人氏がしていたという、「今を生きている人がそのまま生きている状態で悟りを開く」ための修業方法とは何でしょうか?

    1. えびすこ様
       筆者が体験した「ふしぎなこと」についてはすでに拙著「禅を正しく、わかりやすく」に書きました。上記のご質問に対する回答も併せてお読みください。

  2. 追記
    この記事を読んで思いました。あえて聞きますが、今現在の本職の「新興宗教とは違う」正統派の仏教宗派の僧侶が、「悟りを開きました」や「解脱しました」と公表するのは、仏教界ではタブーなんでしょうか?

    1. えびすこ様
       僧侶が「悟りを開きました」とか「解脱しました」と言うのはタブーというより見識の問題でしょう。その意味で、筆者がどんな形にしろ公表したのには忸怩たるものがあります。
      ただ、とても不思議で感動しましたので「つい」。お笑いください。修行方法というより、「空(くう)」がわかったからだと思っています。

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