中野禅塾だより (2015/12/16)
カントと「空」思想(1)
前著「続・禅を正しくわかりやすく」でもお話したように、禅の「空」思想は、以前紹介した西田幾多郎の「純粋経験」理論とも、カント(イマヌエル・カント,1724-1804)の観念論思想ともよく似ています。すなわち、
「純粋理性批判」(岩波文庫)においてカントは(一部筆者が簡約)、
・・・われわれは認識に当たってモノ自体、つまりモノそのものに触れるのではない。それは未知のXである。われわれが認識するのは現象であるにすぎない。われわれが認識するものは素朴に考えれば、いかにもそこにあるように見えるが、じつはそれはモノそのものではない・・・モノそれ自体存在するものではなくて、われわれの心の内にしか存在しえないものである・・・
と言いました。カントはこの考えを超越的観念論と名付けました。この思想はフィヒテ(1762-1814)やヘーゲル(1770-1831)に受け継がれて発展し、ドイツ観念論哲学の系譜と名付けられました。私たちがごく自然に「モノがあって私が見る」というモノゴトの見かたは、じつは19世紀、産業革命に伴って起こった、モノが大事、科学万能の唯物思想に馴らされている見かたに過ぎないのです。とリあえず現時点では読者の皆さんは「モノゴトの認識法には唯物論的見かたと観念論的見かたの二つがある」と思って下さい。
要するにカントは、
・・・われわれが「モノがある」と認識しているのは、じつは「モノの本体(カントの言うモノ自体:筆者)ではなく、私たち一人ひとりの教養や感性によって判断された結果の「モノの像」を見ているだけなのだ。「見ている」という現象だけが真実だ。モノがいかにもそこにあるように見えるのは、それまでの経験や、さらに「他の人もそう思っているから」そう判断しているだけだ・・・
と言っているのです。「空」の思想とよく似ていることがお分かりいただけるでしょう。つまり、洋の東西を問わず、こういう考えは文化の発展に伴っておのずと出て来たのでしょう。ただし重要なことは、禅の「空」思想は、けっしてモノ自体を否定していないことです。「色」ですね。そして単に二つのモノゴトの見かたがあると言っているのではありません。「色と空が一如である」、つまり、「色即是空」、これこそ禅がカントらの西洋哲学とは決定的に違う東洋独自の思想だ、と筆者は考えています。
「一如」とか、「不一不異」を全身で理解するのは容易ではありません。禅の修行の目的はそれを体得することにあると言っても過言ではないのです。それについては今後お話していきます。