その1)数年前、筆者のブログについて岩村宗康さんと充実した対話をしました。その内容は筆者の基本的考えを〈くっきり〉とさせるものでした。すでにその記録を〈岩村宗康さんとの対話〉として、ブログにアップしましたが、他の読者からの反響もあり、いま読み返してみると少し表現にわかりにくいところがありました。そこで今回、表現を少し変えて再録させていただきます。
きっかけは、道元の〈正法眼蔵・現成公案〉について、岩村さんと筆者との解釈の違いでした。岩村さんは臨済宗のしかるべき位置にいた人であり(現在は真言宗の寺の住職)、高校生時代から禅に親しんでいるとか。禅の古典にも通暁している人のようです。)
岩村さんは〈現成公案〉を〈既成の事実〉すなわち、仏の真理はすでに目の前に現れている(諸法実相)と解釈しています。これに対し筆者は「現成公案編は色即是空・空即是色を説いている、すなわち、すべてのものはあるべきようにある(公案している)、しかし、見て(聞いて、嗅いで、味わって、触れて、つまり体験して)初めてモノとして現れる(現成する)」と解釈しています。これこそが「現成公案編は正法眼蔵のハイライトである」と言われるゆえんでしょう。それがわからなければ〈正法眼蔵〉はわからず、禅はわからないのです。
岩村さん:広島と長崎に落とされた原爆による死者は50万人を超えたと言われています。塾長が言う〈禅の空〉には原爆は含まれるのですか。原爆による死者も含まれるのですか。
過去の出来事で済まさず、即今に置き換えてお答え下さい。塾長が言う〈神〉が造ったモノでは無い〈原爆〉と、それによる〈神〉に責任が無さそうな〈死者〉の問題です。
筆者:筆者の禅と神を結び付ける考えに対する岩村さんの反論です。つまり、「原爆も神の御業ですか(そんなはずはないでしょう!)」と言っているのです。それに対する筆者の回答は、「もちろん、ウランもプルトニウム原子も神の御業で作られました。核爆発も神の法に従って起きます。しかし、核兵器の製造は神の御業ではありません。ただ、その神の法を人間が悪用しているのです。神は手を出されません・・・」でした。岩村さんは「神とは」という根源的な問題がわかっていないようです。
岩村さん:塾長は、モノゴトの見かたを観かたに変わるのが〈禅の空(くう)〉だと説いているので、広島長崎に投下された原爆自体やそれによって亡くなった人々自体が〈空〉だと言うはずが有りません。空観は分別や戯論(けろん)からの離脱を通過しないと如実知見という智慧(般若)にならないことも塾長は承知していると思います。
しかし、私には「梵(ブラーフマン)(と)我(アートマン)(の)一如体験を悟りとみなす説」「神仏同体説」「宇宙第一原因としての神、物質や生命の創造者としての神、その御心の計画説」などは「戯(け)論」としか思えないし、「如実知見」とも思えないのです。つまり、塾長の上記のような所説は、〈般若空観〉とは無縁な〈戯論〉に見え、塾長の言う〈禅の空(くう)〉が歪んで見えるのです。確かに、自然現象は神秘的です。特に生命現象は本当に神秘的です。だからと言って、その神秘性を〈神〉で済まそうとするのは性急過ぎると思います。先生のお仲間の生命科学者達やその後継者達が必ず解明してくれると思っています。今は兎に角「神秘で不思議なコト」は「神秘で不思議なあるがまま」にして置きませんか (以上括弧内は筆者の追加です)。
筆者:まず、「梵(ブラーフマン)と我(アートマン)の一如体験を悟りとみなす説」について。この思想は、インドのウパニシャッド哲学(ヴェーダ信仰)です。ブログでも書きましたように、ブッダの思想は、それ以前のインドのウパニシャッド哲学のアンチテーゼ(対立命題)として生まれました。つまり、ブッダの考えも一つの思想に過ぎないなのです。筆者は禅に傾倒しながら、この部分はウパニシャッド哲学に与しているのです。ここが道元の流れを汲みながら、道元の考えとは別の考えを持っているのです。
次に「神仏同体説」について。〈仏〉の定義にはさまざまなものがあります。「ブッダのこと(仏=ブツ)」とする考えもあります。一方、大日如来(真言密教)や毘盧遮那仏(華厳経)は明らかに全知全能の存在を指しています。筆者が仏と言う場合はもちろん後者のことです。「神仏同体説」を戯論とおっしゃるのは仏教家ですからでしょう。しかし、戯論も何も「神は仏の仮の姿」というのが日本仏教の共通認識です(本地垂迹ほんじすいじゃく説ですね)。さらに岩村さんは「宇宙第一原因としての神、物質や生命の創造者としての神、その御心の計画説」などは戯論としか思えない」と言っていらっしゃいますが、岩村さんのおっしゃる〈諸法実相(自然は仏の姿)〉で言う〈仏〉は明らかに宇宙の創造者です。それを神と言ってどうしていけないのでしょう。岩村さんこそ自己矛盾していらっしゃいませんか。
岩村さん:確かに、自然現象は神秘的です。特に生命現象は本当に神秘的です。だからと言って、その神秘性を「神」で済まそうとするのは性急過ぎると思います。先生のお仲間の生命科学者達やその後継者達が必ず解明してくれると思っています。今は兎に角「神秘で不思議なコト」は「神秘で不思議なあるがままにして置きませんか」と言っています。
筆者:よろしいですか。筆者は40年以上、生命科学の研究者として生きて、長年「生命」に触れてきました。さらに、43歳から10年間神道系の教団に属し、数々の神秘体験をしました。これら二つの体験とそこから得られた感性に基づいて考えを述べているのです。岩村さんとは比較できないでしょう。筆者がある日突然「生命は神によって造られた」と直感したことについて、読者の滝川哲さんが、「デフォルト・モード・ネットワーク現象でしょう。デフォルト・モード、すなわち、何もしていない状態の時、人間には知性・能力・思考等を超えた〈気づき〉が起こる」と言っています。つまり、筆者の「生命は神よって作られた」との直感が「それだ」とおっしゃっているのです。「神秘で不思議なコトは神秘で不思議なあるがままにして置きませんか」とは!滝川さんは「あなたが神の実在を直感できたことは、得難い体験です」と言っているのです。岩村さんの意見とは違う人もいらっしゃるのです。
その2)
筆者と岩村さんとの対話を興味を持って読んでいただいている方がいらっしゃいますので、その後の展開をご紹介します。たしかに筆者のモノローグより岩村さんとの対話の方が他の読者の皆さんにもわかりやすいかもしれません。岩村さんは臨済宗妙心寺派のしかるべき位置にいた方で、現在は岐阜県の徳林寺住職です。
ちなみに直近の岩村さんのコメントは「塾長は神や仏に取り憑かれています。眼を覚まして真人間に戻って下さるよう切に願っています」でした。
岩村さん:「華厳經」の毘廬遮那仏を全宇宙の主宰者のように説いている仏教書があります。しかし、毘廬遮那仏は如來の等正覚(最高の悟り:筆者註)の智慧を象徴しているので、全宇宙の主宰者ではありません・・・「華厳経」の「毘廬遮那仏」が無限で悠久な宇宙の主宰者だと誤解されそうな経文を探してみました。
・・・如來の等正覺は寂然として恒に動ぜず、而して能く普く身を現じ十方界に遍滿す。譬えば虚空界の如く不生にして亦不滅なり。諸佛の法は是の如く畢竟生滅無し。
實叉難陀譯「大方廣佛華嚴經」巻23(T10-122b)・・・。
筆者:岩村さんは「毘廬遮那仏は最高神などではなく、如來の等正覚の智慧を象徴だ」とおっしゃっていますね。よろしいですか。毘廬遮那仏(大日如来)を全宇宙の主宰者とするのは真言密教の基本的理念です。岩村さんが住職をしていらっしゃる徳林寺は真言宗です。いいんでしょうか。後ろから撃たれますよ。
岩村さん:「仏陀」は「真実に目覚めた人、悟った人」を意味していて、飽くまで智慧がある「人」です。だから、塾長が言うような「神」と同一視すべきでは無いと思います。
筆者は釈迦=仏と考えたことは一度もありません。筆者が言う仏とは、(全知全能の)神と同義です。ブログを読んでいただければわかります。たしかに釈迦のブッダから仏という言葉が来ていますが・・・。定義の問題です。ついでですが、筆者の定義する神は、八百万の神々(例えば瀬織津姫の神)とはちがいます。
岩村さん:「華嚴經」の編纂者達が意図したかどうかは判りませんが、その後「涅槃經」で「仏身」が「梵(ブラーフマン)」、「仏性」が「我(アートマン)」に見えるように編纂される契機を提供したことは確かでしょう。「華嚴經」の毘廬遮那佛は「如來の等正覺(註1)」のシンボルであることを承知して欲しいと思います。
筆者:岩村さんのおっしゃる・・・「涅槃經」で「仏身」が「梵(ブラーフマン)」、「仏性」が「我(アートマン)」に見えるように編纂される契機を提供した・・・
には驚きます。「梵(ブラーフマン)」と「我(アートマン)」は釈迦以前の(以後も)ヴェーダ信仰(ウパニシャッド哲学)の概念であり、仏教思想とはまったく別です。「涅槃經」の編者が採用するはずがありません。もうムチャクチャです。岩村さんはよく仏教を勉強していらっしゃる方だと思いますが・・・。筆者の言う「インド哲学の歴史的展開を知るべきだ」とは、このことです。
普通の座禅は、足を組んで座布団に座り「沈黙の状態を保つこと」ですが、「お経・念仏を挙げながら行う」ことでも罰当たりにはならないと思います。むしろ、そちらの方が自然な発想であるようにも最近思うのです。
えびすこ様
お久しぶりです。罰は当りませんが、座禅・瞑想にはならないと思います。座禅・瞑想法については、今まで意識的に言及するのを避けていました。