岩村宗康さんとの対話-禅と神(その6)

 〈正法眼蔵・心不可得〉に、徳山宣鑑(とくさん・せんかん780-865)の話が出てきます。徳山は広く仏教を学んで律にも精通し、とくに金剛経の研究では群を抜いていたが、彼が生きた時代、南中国で禅宗が盛んになってきた。ところが理論仏教を極めた学僧徳山にとって、禅が標榜する〈直指人心、見性成仏。教外別伝、不立文字〉の教えは、まったく納得できないものであった。そこで彼は外道を降伏(ごうぶく)しようと、金剛経の注釈書を車に積んで南方へ向けて出発した。しかし、途中の茶店の老婆に言われた言葉がわからなかった。徳山はすぐにその足で、近くに住む竜潭祟信(りゅうたんそうしん)禅師を訪ね、弟子入りした・・・。

 次に、〈正法眼蔵・渓声山色〉の巻には香厳(きょうげん)智閑(?~898)の悟りの契機について紹介されています。香厳は、大潙(だいい)大円禅師の道場で学んでいた時、「おまえは博識だが、経書の中から覚えたことではなく、父母がまだ生まれない(父母未生)以前のことについて、私に一言いってみなさい」と言われた。しかし彼の知識では何も答えることができず、遂に年来集めた書を燃やし、「絵に描いた餅では飢えを満たせない。私はもう今生に仏法を悟ることを望まない。ただ行粥飯僧(修行僧の食事係)として務めよう」と。しかし、さらに何年たっても悟ることはできず、そこも辞め、「ただ、旧師大證國師の墓守として生きよう」と決心し、師の蹤跡をたづねて武當山に入った。そこである日、道を掃いていると、かわらが飛び散って竹に当たり、「カーン」と響くのを聞いて、からっと仏道を悟った・・・。有名な香厳撃竹のエピソードです。

 この二つのエピソードはいずれも「禅はいくら知識があろうと、わかったか、わからないかの世界だ」と言っていますね。徳山も香厳も「わからないのは私が未熟だから」と、あくまでも謙虚さを失わなかったため悟りに達したのです。

わかるということ

 筆者に送られてきた岩村さんの膨大な書簡を読んで筆者が感じたのは「この人はわかるということがわかっていない」と思いました。一つの例があります。筆者の大学院指導生の一人に地方大学出身の人がいました。筆者の研究室では、学生が入学するとすぐに英語の論文を読むトレーニングをします。ところが彼の場合、どうもいつも答えのピントがずれているのです。下手な和訳ばかりするのです。ある時、「ハッ」とその理由がわかりました。彼は自分の和訳が正しいかどうかがわからないのです。筆者にもわからないことはたくさんあります。しかし、筆者には「わからないことはわかる」のです。おそらく岩村さんはわかるということがわかっていないのでしょう。

 禅の議論は、武士が刀を抜いて戦うのと同じ、文字通り真剣勝負です。

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