禅語(1,2)「枯木龍吟」「無我」

          中野禅塾だより (2016/1/8)
禅語について(1)
 
 禅語というものがあります。禅のエッセンスを熟語にして、色紙や掛け軸にしたものです。これからお話しする枯木龍吟とか、柳緑花紅がよく知られていますね。今、禅が静かなブームだと言います。先日もテレビ番組「今こそ実践 禅の生活」で、禅を実生活に生かして救われたケースが紹介されていました。一例を挙げますと、Aさんは、59歳の時心筋梗塞で死線をさまよい、将来に大きな不安を感じ、「私はもうダメだ。私にはこれからの人生は無理だ」と弱気になったとか。しかし、禅語枯木龍吟に出会い、「病気を治して頑張っていこう。生きて人のためになることも可能だ。生きるんだ!」と大きな勇気が湧いたと言っていました。62歳で定年となり、さまざまな地域活動(街歩きサークル、合唱、生涯学習)のリーダーとして活躍し、74歳の現在も元気で、手帳のスケジュール表は一杯でした。まことに結構で、ご同慶の至りでです。Aさんの人生の転機となった、禅語枯木龍吟をAさんは、「枯木でなければできない役割がある(歳取った私でなければできない役割がある)と受け取ったからだ」そうです。
 しかし本当の意味はまったく別なのです。Aさんがこの禅語に出合って心機一転されたのは結構なことですが・・・(それにしてもAさんは自分を枯れ木だとは!)。以下は道元の「正法眼蔵 第六十一巻 龍吟(わざわざこういう巻を設けているのです)」にある文章です。筆者抄訳で示しますと、

・・・・・・舒州投子山慈濟大師にある僧が質問した。僧:枯れ木は龍吟を奏でるでしょうか。慈濟大師:私の仏道においては、ドクロの瞳が大いなる法を説いている・・・外道(仏教徒以外の人、道元の言葉は厳しい:筆者)の言うところの枯れ木は、釈尊の言う枯れ木とは意味がまったく異なる。外道は枯れ木を朽木だと言う。それでは朽木が龍吟をかなでるはずがない。巡り来る春に逢うはずがない・・・・・・仏祖の言う枯木は枯れ海に等しい。海が枯れるのも、木が枯れるのも等しいのだ。木は枯れても春に逢うのだ。今ある山も海も空も枯木と同じなのだ。萌え出る芽にそよぐも風の音も枯木の龍吟と同じなのだ・・・・・・

と述べています。つまり「枯木が風に静かに鳴る音やどくろの黒い目の色(エキセントリックな表現ですが、禅ではよくこういう言い方をします)など、自然のあらゆるものはそのまま仏の姿、仏法そのものの表れだ」と言うのです。こういう話を聞くと、筆者はすぐ蘇東坡(中国北宋の人)の「渓声山色」を思い出します。「悟りを開いてみると、谷川の音、山のたたずまいすべてが仏法の表れだとわかった」という感動的な詩です。

Aさんの理解とはまったくちがうことがおわかりいただけるでしょう。拙著「禅を生活に生かす」には、このように自己流の解釈をしている人がいかに多いかを書きました。やはり正しい意味を知り、深い意味を味わうことが大切でしょう。ちなみに禅では生半可な解釈を「生悟り」と言って厳しく戒めています。

禅語について(2)
「無我」

「無我」は禅だけでなく仏教の中心思想の一つです。しかし、これまで多くの僧侶や宗教学者や評論家が誤って解釈してきました。すなわち「無我とは我欲を捨て去ることだ」と言うのです。「我欲は棄てなさい。自分を苦しめるだけです」という「教え」は誰でもが納得しやすいので「なるほど」と思わせるのでしょう。つまり、人は自分の欲望やエゴに振り回されている。「よい学校に入って、倒産の恐れのない有名会社に就職し、豊かな人生を送りたい・・・」、しかし、その代償として過酷な競争や、毎日夜遅くまでの就業など、心に余裕のない生活を送らざるをえないのが現代人の姿でしょう。そして「こんな人生で良いのだろうか」と感じている人も多いでしょう。しかし、そんな教えを聞いて救われた気持ちになるのは一時のはず。家へ帰ればすぐに過酷な現実が待っており、いやおうなしにそれに向き合わなければならないからです。

 道元は「正法眼蔵・現成公案編」で、
 ・・・佛道をならふ(習う)といふは、自己をならふなり、自己をならふというは自己をわするる(忘るる)なり、自己をわするるというは、萬法に証せらるるなり、萬法に証せらるるといふは、自己の身心、および他己の身心をして脱落せしむるなり・・・
と述べています。よく知られた一節ですね。これをある人が、
・・・仏道(真の道)を学ぶというのは、自己を習い知るということである。自己を習い知るとは、自己を完全に忘れ去ることである。自己を忘れ去るとは、自分が空になって、空になった自己が万法によって保証されることだ。万法に証されるということは、自己の身心も、他己(自分以外の人)身心も脱落(とつらく)せしめ、空になって、それが法によって保持されることだ(下線筆者)・・・
と解釈しています。「空」などの言葉を使ってもっともらしいですね。しかし、道元の教えはこれとはまったく違うのです。
 
 筆者の解釈は、
・・・仏道を習う、つまり仏法に従った正しいものの観かたとは、体験の世界なのだ。自己はそれ自身独立してはありえない。他己(自分以外のモノやコト)によってあらしめられる、他己があって初めて自己もある。しかし、純粋な体験とは、観るものなくして観る行為(現象)そのものなのだ。そこでは、行為だけがあり、もうその主体である私は(他己も)ないのだ。しかも、一つの体験に留まっていてはいけない。それをたゆみなく続けていくことこそ、真の仏道なのだ・・・
です。つまり「空」の理論を説いているのです。いかがでしょうか。
「空とは体験である」とお話しました。純粋な体験の世界には我(われ)、つまり、観る主体は消えているという意味なのです。それが本当の「無我」の意味です。「エゴを棄てる」などという意味ではないのです。我欲とはまったく関係ありません。

 禅のキーワードを正しく理解しないで禅がわかるはずがありませんね。「無我」を「我欲」などとするのは安直な解釈なのです。いまもっとも必要なことは、これまでの僧侶や宗教家のこういう解説を棄てて、禅の原点に戻って学び直すことだと思います。

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