中野禅塾だより(2016/1/11)
「正法眼蔵」(1)
有名な道元禅師(1200-1254)の主著(87巻)ですね。日本古典の中で最も難解なものの一つと言われています。「禅はわかったか、分からないかの世界」だからでしょう。禅師が解説書を書くのは極めてまれです。「正法眼蔵」のハイライトはなんといっても「現成公案編」でしょう。道元は、
・・・・・・たき木(薪)、はひ(灰)となる、さらにかへりて(返りて)たき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさき(先)と見取すべらかず。知るべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪にならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。このゆえに不生という。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり。これゆえに不滅という。生も一時のくらゐ(位)なり、死も一時のゐなり、たとへば冬と春との如し。冬の春となるをおもはず、春の夏となるといはぬなり・・・・・・
と言っています。この文章について、近年出版された石井恭二氏「現代文正法眼蔵」(河出書房新社)の解釈は、
・・・生が死になると云わないのは、存在という現象は空であって実体がないのだという理にかなったことである・・・こうしたことから、仏法では、実体のない生を現象として不生というのである。死が生とならないことも、仏法によって現れる全現象の中のことである。それゆえに死にも実体がないからこれを不滅と云うのである。実体のないものに滅があるはずもないから、死は不滅と云うほかはない。生と死は対立していない。つまりは、生も時に等しい現象である。死も時に等しい現象である。たとえば冬と春とのようなもの。人は冬が春になるとは思わない。春が夏になるとは云わないのだ(下線筆者)・・・
筆者はすぐに取り寄せて読んでみました。しかし、よくわかりませんでした。じつは、現成公案とは「モノはあるべきようにある(公案)。そして見て(聞いて、嗅いで、味わって、触って)初めて現れる(現成)という意味、つまり、これこそ筆者の言う空理論なのです。なのに石井氏は「(存在という現象は)空であって・・・」と解釈しています。これでは解釈になっていません。まず空とはなにかを説明しなければなりません。石井の空理論の解釈と筆者の解釈は違うのかも知れません。
筆者訳を示しますと、
・・・薪が燃えて灰になるとか、薪は先、灰はのち、生きているものが死ぬ、と考えるのは普通の見方である。しかし正しい観方によれば、薪とか灰とか云う物があるのではなく、「私達がそれらを観る」という体験そのものがあるだけで、それが真の実在なのだ。だから、薪を観る体験も、灰を観る体験も、その一瞬、「今」だけだ。その時が過ぎればそれらの体験は直ちに消えるのは当然だ。だから生とは、一瞬一瞬の「今ここ」の生(なま)の体験の連続であり、死も同様の体験なのだ。つまり、死と生とは別の体験なのだ。春は春の体験、夏は夏の体験と同じことだ・・・
いかがでしょうか。
あなた様の解釈だと、般若心経に
無眼耳鼻舌身意と明記されている事と矛盾するのではないでしょうか。今ここの体験が全てなら、なぜわざわざ無眼耳鼻舌身意と明記されているのでしょうか。この無は、名称を指しているのではなく機能そのものを指していると思います。
池田様
メールうれしく拝読しました。矛盾しません。
般若心経の著者(もちろんブッダではありません)は、「体験」とは体験そのものであり、見る(聞く、嗅ぐ・・・)という動作すら入らないと言っているのです。とても重要なことですから、
他の読者のみなさんの参考になります。どうか私のこの言葉を咀嚼してから、もう一度コメントをください。
あたたかいお返事をありがとうございます。
このページのみを拝見させていただいてコメントをしたものですから、他の箇所を読んでおりません。
最初から読ませていただいて、改めてコメントさせていただきます。
お返事ありがとうございました。