浄土の教えのすばらしさ(1)

浄土の教えのすばらしさ(1)
 
 筆者は、以前お話したように、「歎異抄の呪縛から離れるべきだ」と考えています。「しかし、浄土の教えはすばらしいものだ」とも言いました。両者は決して矛盾してはいません。今回はその理由をお話します。

 まず、浄土の教えとは、大乗経典の内、「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」の、いわゆる「浄土三部経」を根本経典とする教えです(註1)。ごく簡単に内容をご紹介しますと、「無量寿経」には、阿弥陀仏がすべての人々を救うために立てた四十八の願いが書いてあります。「観無量寿経」には、「王舎城の悲劇」という、古代インドマガダ国の王ビンビサーラ、王子アジャセ、王妃イダイケ親子のすさまじい因縁と葛藤が描かれ、苦しむ王妃が釈迦に救いを求めるお話です。最後の「阿弥陀経」には、極楽のすばらしさ描写されています。これらはすべて、たんなるフィクションの羅列であり、そのまま読んで信じるのはどうかしています(そういう人たちが現在もいるのに驚ろきます)。
(註1「華厳経・十字品」にも書かれており、龍樹の「十住毘婆論」はその註釈です)

 浄土宗の開祖法然は違います。古来先師たちは「無量寿経」に示されている四十八願の内の第十八願の解釈に苦慮してきました。すなわち「もし私が仏となれるほど修行を積んだときでも、すべての人々がまことの心をもって、私の国(極楽)に往生しようと願い、少なくとも十回、私の名(南無阿弥陀仏)を称えたにもかかわらず、(万が一にも)往生しないということがあるなら、私は仏になるわけにいかない。ただし五逆罪を犯す者と、仏法を謗る者は除く」の下線部分です。「すべての人を救う」と言いながら、例外規定を設けたのですから明らかに矛盾していますね。法然のすごさは、その部分をさらりと受け流したことです。
 「観無量寿経」にも極楽に生まれるための方法が書かれており、資質や能力が最低の凡夫でも「ただ南無阿弥陀仏と唱えればいい」とあります。さらに「阿弥陀経」にも「南無阿弥陀仏と唱えなさい」との教えが書かれていることに法然は注目しました。つまり、法然はこれらの経典のフィクションに惑わされることなく、三つの経に共通するものが、「ただ南無阿弥陀仏と唱えよ」であることの重要性に注目したのです。

 じつは法然のすばらしさは、もう一つあります。「浄土三部経」は、他の大乗経典類とは著しく異なるのです。すなわち、他の大乗経典は自力、つまり、厳しい修行によって、「自らの努力で悟りに達しよう」という主旨です。「大般若経」に依拠する禅宗や、天台・真言宗などが好例です。自力の難しさは、現代人とてまったく変わりありませんね。それに対し浄土の教えは、「ただ南無阿弥陀仏と唱えなさい」という、いわゆる他力ですね。つまり、大乗経典の中ではきわめて特異的な位置を占めています。法然は、「これだ!」と気付いたのです。
 これらは法然の天才性を如実に表しており、親鸞ならずとも「この人が言うことが、たとえ間違っていて、地獄に落ちようとも後悔はしない(歎異抄で言う「地獄は一条住みかとかし)」と惚れ込むところですね。よく言われるような、法然は当時の「文字も読めず、ありがたい教えを聞くことも少ない」民衆のためだけに説いたのではありません。現代にも立派に通用するすばらしい思想なのです。この念仏の一見の安易さが、他の宗派(現代でも多くの人たちに!)軽んじられている理由の一つでしょう。しかし、南無阿弥陀仏の名号は、爺さん婆さんが、お寺やお墓へ行って「なんまいだー」と唱えるイメージで考えてはいけません。そんなことをただ日常的に繰り返していても、けっして絶対安心の境地にはたどり着けません。
 じつは、法然の言うことが完全にわかって大安心を得た人は、筆者の尊敬する清沢満之や暁烏敏など、ごくわずかだと思います。私たちも「なぜか」と思わなければなりません。

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