死生観(3)避けられない死
数年前こんな夢を見ました。まあお聞きください。
薄暗い廊下を一人で歩いていました。どこかはわかりませんが、その先が死であることは、はっきりとわかっていました。死刑場への道だったような気がします。しかし、それを避けることはもちろん、立ち止まることも、叫ぶことも許されません。誰かに押されるわけでも、引っ張られるわけでもなく、ただ前へ歩くよりしかたなかったのです。周りには誰一人居ず、自分の意識だけがありました。本当に恐ろしいことでした。幸いにもその夢は現実にはなりませんでしたが、今でもその時の気持ちはありありと思い出せます。
前にお話した、ガンで亡くなった筆者の友人たちもそういう気持ちを味わったと思います。体調不良を感じて医者に行き、検査がだんだん進んで行って、いよいよガンであることが確定して行った過程です。恐らく太平洋戦争で特攻攻撃を命じられた兵士たちもそうだったでしょう。よく言われる100%死と99%死との差はたとえようもないほど大きなものだと実感できました。
筆者はそれが夢だとわかって、何とも言えない気持ちでした。そして、死を決定付けられた人の気持ちがどんなものかが身に染みて理解できました。筆者は禅を中心にさまざまな宗教について書いています。もちろん人間が最も恐れるのは死であり、避けられないそれに対しいかに平常心を保てるか、その安心を得るために人が宗教に関心を持つのでしょう。
前にも書きましたように、死を目前にしたことのない者が宗教について書き、死後の安心を人に説くのは許されないことだと思っています。あの高僧仙厓が死に臨んで「死にとうない」と言って弟子を当惑させたこと、長年仏道を説いて来た瀬戸内寂聴さんが重病になったとき、「神も仏も無いものか」と言ったことは、信仰のもろさを、本音を暴露したということでしょう。瀬戸内さんはその貴重な体験を、神仏に対する疑問よりも、苦しむ人達への共感へと向けるべきだったのではないでしょうか。一方、東日本大震災の被災者を励ますために現地に乗り込んだ有名寺院のエリート僧たちがすべて挫折したのもわかるような気がします。死の恐怖や苦しみを感じたことのない者が、頭で考えたことで人を癒せるはずはないでしょう。とても共感を得られるとは思えません。逆に「傾聴おことわり」のビラを仮設住宅の扉に張られてしまったのが何よりの証拠、と言ったら言い過ぎでしょうか。さらに、筆者が死生観など軽々しく他人に聞いたり、自ら口にするものではないと言うのもこういうことなのです。
筆者のこんどの夢は、はからずも、死が決定付けらた人間の心情をわからせていただいた貴重な体験だったと思っています。