テーラワーダ(上座部)仏教(1)
釈迦が新しい教説を建てる以前にもインドには宗教がありました。ヴェーダ信仰と言われるもので、釈迦仏教が隆盛を極めた時でさえ、厳然として続き、ヒンズー教へとやや変質し、現在に至っています。むしろ仏教はインドから駆逐されてしまったほどで、決してインドにおける唯一絶対の宗教ではありませんでした。この視点はとても大切です(インド宗教史については後日お話します)。
では釈迦の教えの新しさはどこにあったのか。それは、
・・・あらゆる苦しみには必ず原因があり(縁生)、恒常的なものではなく(無常)、実体などない。実体のないモノにこだわる(渇愛)から苦しむのだ。この縁と苦しみの関係に気付いてそれを取り除けば、苦しみから解放される(涅槃、悟り)・・・
というものです。縁起の法則と言います。この視点を明示し、渇愛から逃れる方法も示したところに釈迦の思想の新しさがあります。それらの思想は、初期仏教の上座部仏教(現在はテーラワーダ仏教とも)が依拠するパーリ仏典に明確に記されています。ただ、パーリ仏典にある釈迦のさまざまな言葉は、まるでその場にいた人が記録したように書いてあり、現在の修行者がそれらをそのまま信じているように思えるのは気になります。なんといっても釈迦の没後数百年経ってから成立したのですから。
初期仏教はその後大乗仏教として大きく変貌しました。人によっては、「大乗仏教は上座部仏教とはあまりも変質してしまったので、別の宗教として建てるべきだった」と言う人もあります。しかし、筆者はそうは思いません。縁起の法則は、まちがいなく「空」思想につながっているからです。さらに、大乗仏教徒の基本的姿勢である「自未得度先度他(自分が悟りを開かなくても他の人々を救う」は、釈迦の思想(悟りを優先する)と反すると言う人もいます。たしかに釈迦は悟りの後、その内容があまりにも高度で表現しにくく、人に教えるのは無理だと考えていたと言われます。にもかかわらず、梵天に強く懇願されれて、死ぬまで45年間も衆生済度の旅を続けたのです。
それはともかく、上座部仏教は現在、あのテイクナットハン師の活動として全世界に広がっています。そればかりかミャンミャーやタイ、その他の国には上座部仏教の瞑想センターが設立され、さまざまな国から修行者が集まっています。以前述べましたように、テイクナットハン師の元には、あのイスラエルとパレスチナの人たちも集まってリトリート、すなわち癒しを受けているのです。つまり、仏教の新しい潮流となっているのです。
ただ、筆者は上座部仏教にも限界があると思っています。たとえば、池田小学校児童殺傷事件(2001)や、東日本大震災(2011)や、今度の軽井沢観光バス事故で子供さんや親兄弟を亡くされた遺族たちが、この釈迦の教えで救われるかどうかです。「実体のないモノにこだわるから苦しむ」と言われても、子供さんや親兄弟を亡くされたことはまぎれもない実体なのですから。その点、禅は上座部仏教とは根本的に違うのです。禅は実体を「空」と同じように尊重しているからです。
やっぱり上座部仏教から禅への数百年の経過には意味があるのです。そこをどう皆様にお伝えできるかが、筆者の課題です。
テーラワーダ(上座部)仏教(2)禅との違い
「禅は大乗仏教の流れを汲むものである」と言う人もいます。その理由として、「禅の基本理念は「空」だからだ」を挙げています。言うまでもなく大乗仏教の基本理念も「空」であり、あの龍樹(ナーガールジュナ)が、それまで様々な解釈があった「空」についての考え方を統一し、その後の大乗仏教の方向性を決定付けたと言われています。
しかし、筆者は以前のブログで龍樹の空思想は、禅の空思想とは違うとお話しました。その意味で禅は大乗仏教の範疇から外れる(出た)ものだと思っています。
前回のブログ、テーラワーダ(上座部)仏教(1)で、「禅が上座部仏教とは根本的に違うのは実体を「空」と同じように尊重しているからだ」、とお話しました。実体とは「色」ですね。もう一度テーラワーダ仏教の基本的考えについて簡単に述べますと、
・・・あらゆる苦しみには必ず原因があり(縁生)、それは恒常的なものではなく(無常)、実体などない。実体のないモノにこだわる(渇愛)から苦しむのだ。この縁と苦しみの関係に気付いてそれを取り除けば、苦しみから解放される(涅槃、悟り)・・・
というものです(註1)。釈迦の教えをこう理解しています。
しかし、「無情だから実体はない」と解釈するところに重大な誤解があるのです。仏教関係の本を読みますと、ほとんどこういう解釈が行われています。昔からで、宿痾と言っていいでしょう。恒常的ではあるが実体があることは、筆者がよく言います「ポカンとその人の頭を叩いてみるがいい。『痛いっ。何するんだ』と怒ったら、『あなたは今、実体がないと言ったじゃないか』」からおわかりいただけるでしょう。子供を亡くした親に「あなたの苦しみには実体はない」などと言ったら殺されるかもしれません。筆者の専門である生命科学でも「生物の体は常に合成と分解を繰り返している」ことは基本的な事実です。でも「実体がない」などとはけっしてして言いません。
禅は実体があることをけっして否定していません。上座部仏教の成立から数百年の間に、さすがに上座部仏教の不備に気付き、基本的な思想を転換したのでしょう。そこでは実体を「色」と表現しました。「色」と「空」はそれぞれ、モノゴトの二つの見かた(観かた)です。
では、
註1 本当は釈迦は「あらゆる苦しみには原因がある。そのことに気づくことが大切だ」とだけ言ったのだと思います。後代の人はそれを拡大解釈してしまったのでしょう。教えの拡大解釈は仏教のお家芸ですから。
(いつもお話することですが、筆者のブログで示した他の人の考えは、すべて原典を把握しています。けっして孫引きや思い込みではありません。文字数制限から省略しているのす。)
テーラワーダ(上座部)仏教(3)ヴィッパサナー瞑想
まず、テーラワーダとは、テーラ(師)のワーダ(教え)という意味です。スリランカは、インドから初期仏教、つまり上座部仏教が伝わった最初の国です。同国からアルボムッレ・スマナサーラ師など、これまでに多くの禅師が訪れ、熱心に初期仏教の教えと修法を伝えています。筆者は、スリランカ中部の街キャンデイの山の上にある仏教寺院で修行したことがあります。日本を含めたいろいろな国から人々が来て、熱心に修行に取り組んでいます。同国の、まだ中学生かと思われる少年僧もいました。彼らが談笑している時にも静かな声で笑っているのが印象的でした。
ヴィッパサナー瞑想の修法は、「慈悲の瞑想」と「気づき(サテイ)の瞑想」からなります。
「慈悲の瞑想」とは、静かに座って、「自分が幸せになりますように」「生きとし生きる者が幸せになりますように」「私が嫌いな人が幸せになりますように」「私を嫌いな人が幸せになりますように」と念じます(念ずる言葉にはまだそれぞれいくつかあります。くわしくは成書をお読みください)。
「気づきの瞑想」とは、今この瞬間、自分がしていることを意識することです。ちなみに、ヴィッパサナーとはヴィ(明確に)、パサナー(観察する)という意味です。
1)坐禅をしながら、呼吸のさい、体の状態を「ふくらむ」「ちじむ」と意識するのです。もし、あれこれ妄想が起こったときは、「妄想」「妄想」と意識し、それを止めます。
2)坐禅以外にも、座る瞑想、立つ瞑想、歩く瞑想があり、それらの時にも、常に自分が「今」していることを意識します。座る瞑想では、ゆっくりと手をあげたり、椅子に腰かけて、やはりゆっくりと手をのばしてコップをつかみ、その中の水を飲みながら、それらの状況を頭の中で「実況中継」するのです。もちろん、そのさい妄想が出てきましたら、そのつど「妄想」「妄想」と気付いて抑止します。
つまり、坐禅・瞑想と言っても禅のそれとはまったく違います。ちなみに真言宗にも「阿字観」瞑想や「虚空蔵求聞持法(こくぞうぐもんじほう)」があり、やはり禅の瞑想とは違うものです(「虚空蔵求聞持法」は、空海が土佐の御厨人窟《みくろど》で達成し、悟りに至ったと言われています)。というより、どの仏教の宗派にも坐禅・瞑想はあります。あの奈良の東大寺大仏様は釈迦の瞑想の姿を表わしたものです。東大寺は華厳宗です。
どの瞑想法を選ぶか
いま述べましたように、テーラワーダ仏教の修法は確立されはていますが、それらにどんな仏教思想の裏付けがあるのかがよくわかりません。そこが人によってはもの足りない点でしょう(次回、筆者の解釈を示します)。どんな瞑想法でも、自分で納得できる思想に裏付けられたものでなければいけないでしょう。第一、とても続けられないはずです。そればかりか、指導者もないのに坐禅・瞑想をして(本人は「毎日喜々としてやった」と言っています)、取り返しのつかないほど重大な害を受けた人もあるのです。筆者が著書で「必ず能力のある指導者の指導を受けてください」と繰り返しているのは、そういう訳です。