臨済録(1,2)

臨済録(1)
 臨済義玄(?-867唐、臨済宗の宗祖)の言葉を集めたものです。その第3番目が、

上堂。云く、赤肉団(しゃくにくだん)上に一無位の真人有って、常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ。時に僧あり、出て問う、如何なるか是れ無位の真人。師禅床を下がって把住して云く、道(い)え道え。その僧擬議す。師托開して、無位の真人是れ什麼(なん)の乾屎ケツ(かんしけつ)ぞ、と云って便(すなわ)ち方丈に帰る。

試しにネットで検索してみますと、
1)赤肉団はお互いの肉体のことだ。切れば血の出る、このクソ袋のことだ。朝から晩までブラ下げておるこのクソ袋の中に、一無位の真人有りだ。何とも相場のつけようのない、価値判断のつけようのない、一人のまことの人間、真人がおる。仏がある。一人ずつおるのじゃ(中略)。修行したこともなければ、修行する必要もない真人がおる(中略)。社長でもなければ社員でもない。男でもなければ女でもない。年寄りでもなければ若くもない。金持ちでもなければ貧乏でもない(中略)世間の価値判断で何とも価値を決めることのできん、霊性というものがある。主人公というものがある。仏性というものがある。正法眼蔵というものがある。本来の面目というものがある(中略)金持ちの家に生まれたのもおれば貧乏な家に生まれたのもおる。学校を出たとか出んとか、この肉体の中にそういうことを一切離れた、無修無証、修行することもいらんが、悟りを開くこともいらん、生まれたまま、そのままで結構じゃという 立派な主体性があるのじゃ(臨黄ネット《臨済宗黄檗宗公式ホームページ:山田無文「臨済録」(禅文化研究所)を引用》)。

2)臨済禅師の教えも、その生きた人間とは何であるかをはっきり自覚し、そこから世の中を正しく見ていこうという点から出発しています。人間は自分を見つめるとき、初めは実体的な自己の存在に何の疑いも持ちません。しかし、さまざまな問題に悩み、壁にぶつかって、さらに自己を掘り下げて見つめていくと、悩みや苦しみの原因はすべて自分の中にあると気がつきます。そこで、本当の自分とは何か、人間とは何か、という問題につきあたるのです。臨済禅師は、この真実の自己を「一無位の真人」と表現されました。
「無位」とは、一切の立場や名誉・位をすっかり取り払い.何ものにもとらわれないということです。「真人」とは、疑いもない真実の自己、すなわち真実の人間性のことで、誰でもが持っているものである。この真人は、単に肉体に宿るだけでなく、人間の五官を通して自由自在に出入りしています。未だこの「一無位の真人」を自覚していない者は、ハッキリと見つけなさい(名古屋市白林寺HP)。

3) 「師は上堂して言った、『心臓(本当は脳)には一無位の真人がいて、常にお前たちの面門(感覚器官)より出入している。未だこれを見届けていない者は、サア見よ!見よ!』。その時に1人の僧が進み出て質問した、『その無位の真人とはいったい何者ですか?』師は席を降りて僧の胸倉を捉まえ『さあ言え!言え!』と迫った。その僧は戸惑ってすぐに答えることができなかった。師は僧を突き放して『お前さんの無位の真人はなんと働きのないカチカチの糞の棒のようなものだな。』と云って方丈に帰った。」 ・・・・・このように考えると臨済の言う「無位の真人」とはいきいきと働く脳を指していることが分かる。「常に汝等諸人の面門より出入す。」ということは 身体と諸感覚器官(目、耳、鼻、舌、皮膚、脳)より出入する脳情報と運動を直感的に表わしていると言えるだろう。

 いかがでしょうか。「臨済録」のハイライトと考えられるこの部分について、こんなにさまざまな説があるのです。

臨済録(2)本当の我

 前回お話した「臨済録」(1)のつづきです。臨済義玄(?-867唐、臨済宗の宗祖)の語録ですね。「臨済録」のエッセンスは、
上堂。云く、赤肉団(しゃくにくだん)上に一無位の真人有って、常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ。時に僧あり、出て問う、如何なるか是れ無位の真人。師禅床を下がって把住して云く、道(い)え道え。
と言っていいと思います。「臨済録」(1)では、ネットで調べた3つの解釈をご紹介しました。

 まず、その3)にあるような「生きいきと働いている脳」ではないと思います。

その1)の内山興正師は、あの澤木興道師のお弟子さんです。内山師は、
 ・・・ 社長でもなければ社員でもない。男でもなければ女でもない。年寄りでもなければ若くもない。金持ちでもなければ貧乏でもない(中略)世間の価値判断で何とも価値を決めることのできん、霊性というものがある。主人公というものがある。仏性というものがある。正法眼蔵というものがある。本来の面目というものがある(中略)修行することもいらんが、悟りを開くこともいらん、生まれたまま、そのままで結構じゃという立派な主体性があるのじゃ・・・
いろいろ書かれていてちょっとわかりにくいですが、要するに人間には霊性とか仏性という性質があると言っておられるのでしょう。

その2)では、
 ・・・さまざまな問題に悩み、壁にぶつかって、さらに自己を掘り下げて見つめていくと、悩みや苦しみの原因はすべて自分の中にあると気がつきます。そこで、本当の自分とは何か、人間とは何か、という問題につきあたるのです。臨済禅師は、この真実の自己を「一無位の真人」と表現されました・・・
とあります。つまり「あるべき人間の姿」という抽象概念を指していると思われます。

 これに対し、筆者は無位の真人とは肉体の中にある、神につながる本当の我だと解釈しています。筆者が本当の我の存在に気が付いたのは長い研究生活の過程でです。いろいろ考えていますと、ある時「フッ」と良いアイデアが浮かぶことがあります。あとで考えて「どうしてあの時あんな考えが浮かんだのだろう」と不思議に思うほどです。後で考えますと、あのとき筆者の意識が本当の我と通じたのだと思います。作家の田辺聖子さんは、小説を考えて行き詰っている時、とつぜん「フッ」と良い考えが浮かぶことがあり、「神さんが降りて来はった」と表現しています。筆者とおなじ感想なのでしょう。

 一方、神智学によれば、人間の身体は肉体に加えてエーテル体・アストラル体・メンタル体・コーザル体・ブッディ体・アートマ体・モナド体のだんだん高次になっていく七層から成っている。そしてブッディ体、アートマ体、モナド体は人間の真我(魂)を形成する質料であり、肉体の内部に眠っている状態で存在すると言われています。筆者にはこの説を知った時、スッと腑に落ちました。筆者の考えていた本当の我と同じものだと受け取れたのです。
 前にもお話しましたように、禅を突き詰めて考えて行くと、必然的に神に行き着くと思います。すなわち、瞑想が深まっていくと、顕在意識と本当の我とのバリアーが無くなって行き、ついには神と通じると思うのです。悟りとはそういうことだと思っています。なぜか同じ考えの人には巡り合ってはいませんが。

常不軽菩薩
 法華経・常不軽菩薩品には常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)が出てきます。だれに対しても手を合わせて「あなたを尊敬します」と言う仏です。「なんだあついは」と気味悪がられ、ときには攻撃されても「あなたを尊敬します」と言うのです。筆者は、この菩薩は、どの人にも内在する本当の我に手を合わせているのだと思っています。そう解釈すると、法華経のこの奇妙な仏のこともスッキリとわかるのです。

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