唯識と禅(1- 3)

唯識と禅(1)

 これまでに、モノゴトには二つの見かたがある。一つは「モノがあって私が見る」という唯物論的見かた、もう一つが、「私がモノを観るという体験が重要だ」という観かたです。「空」の観かたです。「モノがあって私が見る」のは、私たちにはごく当然の見かたですね。しかし、じつはそういう見かた、つまり唯物的な見かたが「あたりまえ」になったのは、まだ高々200年くらいのことなのです。すなわち、17世紀後半から起こったヨーロッパの産業革命、それに刺激されて提唱されたマルクス(1818-1883)やエンゲルス(1820-1895)の思想以来なのです。つまり、私たちはこれらの思想に染まっているだけなのです。
 
マルクスやエンゲルスの時代より100前、同じドイツのカント(1724-1804)以来、ドイツには観念論哲学と呼ばれる思想の系譜があります。それを一言で言いますと「モノなどない。私がモノを観るという体験だけがある」と言うのです。次の二つの例で説明します。たとえば、

 1)ここにリンゴが一つあります。今、AさんBさんCさんがそのリンゴを見ているとします。当然、三者三様に見えているはずです。Aさんの見ている「赤い色」はBさんの見ている「赤い色」と同じでしょうか。Bさんが嗅いだそのリンゴの香りは、Cさんが嗅いだ香りと同じでしょうか・・・。つまり、このリンゴは唯一絶対の存在と言えないのです。それは機械的に観察した場合でも同じです。機械によって観測値が少しづつ違うのです。
 2)ここにリンゴが二つあります。二つとも同じ木に「なった」モノです。色も、味も香りも(少しずつ違うかもしれませんが、ここではシムレーションと考えてください)、そしてなによりも遺伝子がまったく同じです。それらを私たちは「同じリンゴ」としか言いようがありませんね。本当はリンゴA、リンゴB、リンゴCと呼んで区別すべきなのに。
ここに唯物的モノの見かたの限界があるのです。一方、「モノを私が見るという体験こそが実在」とすれば、AさんBさんCさんそれぞれの体験ですから、リンゴA、リンゴB、リンゴCと呼んで区別する必要はありません。これが、「体験こそが真の実在だ」という思想です。

 この考えは、この考えはわが国の西田幾太郎にも受け継がれ、発展しました。西田は「純粋経験」とか「直接経験」と呼んでいます。今、西田はドイツ観念論哲学の系譜を継ぐもの、とお話しました。しかし、西田は「旧制高校生の頃、そういう考えを持った」と言っています。つまり、ドイツ観念論哲学とは独立した思想なのです。西田の非凡さが窺われますね。

 もうおわかりでしょう。これらの思想は、禅の「空」思想と同じですね。思想というものは洋の東西に関わらず発生するものなのでしょう。ただし、禅にはこれらの思想と決定的な相違があります。「モノもある」とみなすからです。「色」ですね。
 唯識思想は仏教の一宗派で、大乗仏教の初期からありましたが、紀元後5世紀頃、無着、世親の兄弟によって確立されました。くわしくは後ほどお話しますが、一言で言いますと、「モノなど無い。この世のすべては人間の認識作用の結果だ。ついには、その心さえ無くなる」というものです。つまり、唯識思想も観念論哲学や西田の哲学の系譜ですね。

唯識と禅(2)

「モノを観るという体験も、もう一つのモノゴトの観かたである」と言われても、「私があってモノを見る」というこれまでの見かたから、簡単には切り替えることはできませんね。ではこう考えてはいかがでしょう。それは唯識思想です。

 唯識(ゆいしき)思想とは文字通り、「ただ心だけがある」という考え方です。すなわち、あらゆるモノの存在は、一人ひとりの人間の唯(ただ)八種類のによって成り立っているという大乗仏教の考え方の一つです。八種類のとは五種の感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、そして第六の「(識)」と、深層の末那識(まなしき)、さらに阿頼耶識(あらやしき)を指します。末那識とは、「自分であることの認識」です。あらゆるモノが個人のでしかないのならば、モノというものは主観的な存在であり、客観的に存在するのではないと言うのです。

 唯識思想の前提は「一人一世界」、つまり「この世は自分だけの世界であり、その外に出ることは決してできない」です。たとえば、いま鳥の声が聞こえたとします。その時、鳥というものが自分の外にいて、鳴いた声が耳に届いて私が認識したのではないと言うのです。それは単なるであり、人間の深層の心(阿頼耶識)の中にしまわれていた種子(しゅうじ、メモリー)がその縁をきっかけにして芽吹き、表層にある耳識(耳による認識)を刺激して「聞こえた」と言うのです。つまり、「阿頼耶識の中の鳥を生じる種子と、耳という感覚器官を刺激する種子と、聞くという聴覚を生じる種子とが一斉に芽を吹いた」とするのです。つまり、この唯識説では「自分の外に鳥という実体はない」と言っているのです。それゆえ、当然認識は個人のものであり、他人の認識とは違います。

 耳識のほかに、視覚は眼識、匂いを嗅ぐのは鼻識、味わうのは舌識、感触を身識と言い、合わせて五識とします。いわゆる五感ですね。これら五識は、単なる感覚だと言うのです。それらの感覚を識別し、判断するのが意(識)であり、私たちがふだんやっている認識作用ですね。唯識思想では、これらの他に深層に「自分の認識である」と判断する末那識、そしてその奥に阿頼耶識があると言いいます。この末那識は「自分が他人ではなく、犬でも花でもない」という意識です。
 阿頼耶識に蓄えられている種子は前世や、現世でこれまでに蓄えられたとしています。それゆえ、別名「蔵識」と言い、それら種子によって、現在や未来の事象が生じると言います。つまり、ここでは釈迦が否定した輪廻転生説が使われているのです(註1)。

 さらに阿頼耶識は、表層の識と情報をやり取りすると言います。すなわち、まず、具体的に現れた表層的な心を現行(げんぎょう)と呼び、「種子が現行を生じる」(種子生現行)とします。逆に現行は阿頼耶識の種子を変質させると言いいます。つまり、他人を愛したり憎んだりする表層の心の有りようが、深層の心である阿頼耶識に影響を与えると言います。これを現行は種子を熏(くん)じる(現行熏種子)と言います。

註1 釈迦は輪廻転生について「無記」と言ったとされています。「そんなことは考えるな」と言う意味です。その理由は、釈迦の思想は、あくまでも現世の苦しみを解決するためのものですから、「よくわからないこと(形而上的なこと)」を前提にして議論することは、実りのない議論になりかねないからです。ただ、輪廻転生の思想は、宗教を考えるとき、非常に重要な概念です。なぜなら、輪廻転生は「魂」の問題、「神」の問題を考える時のキーワードになるからです。以上、唯識説は釈迦の教説とは明らかに違うのです。唯識思想についての筆者のコメントは次回示します。

唯識と禅(3)筆者のコメント

 たしかに唯識思想の「一人一世界」の概念は大切です。私たちは「だれでも同じものは同じように見ている」と思っていますが、それは単に習慣的にそう考えているだけで、錯覚に過ぎません。つまり、「他人」が見ているリンゴの姿は、「私」が見ているリンゴの姿と同じではありえませんね。本来、他人は他人、自分は自分であるはずなのに、つい同じとみなすところが、他人との比較や競争、そしてそれによる苦しみの根となるはずです。「一人一世界」の唯識思想はそこに気付かせてくれるのでしょう。とても重要な指摘ですね。
 しかし、唯識思想には大きな問題点があります。
 
 問題点その1)
 前回、
 ・・・唯識思想では、いま鳥の声が聞こえたが、その時、鳥というものが自分の外にいて、鳴いた声が耳に届いて私が認識したのではない。それは単なる縁であり、人間の阿頼耶識(あらやしき)、つまり深層の心の中にしまわれていた種子(しゅうじ、メモリー)がその縁をきっかけにして芽吹き、表層にある耳識(耳による認識)を刺激して「聞こえた」と言う・・・

とお話しました。しかしこの論法は、仏教の基本的概念の一つである縁起の法則に引きずられたものに過ぎない、と筆者は考えています。縁起の法則とは、「ある出来事には必ず原因がある」という考えです。つまり、唯識思想は縁起の法則を便宜的に使って「鳥の声音はによって生じたものであり、声それ自体はない」としたかったのでしょう。それではこの場合の「縁とはなにか」がわかりません。
 さらに、唯識思想は仏教の空の思想も援用して「モノという実体はない」と言っているのだと思います。さらに、唯識思想は仏教の無常の概念も使って、「モノは常に変化するから実体はない」としたのでしょう。

 つまり、唯識思想は空や縁起や無常や空の思想の発展形ではなく、変質したものなのです。要するに、唯識思想には原理的な無理があると思います。これがこの思想がその後わが国では発展しなかった理由でしょう。

 問題点その2)
 この思想は、阿頼耶識にはすべてのモノゴトについての種子(しゅうじ)が蔵されているとの前提に立っています。ではそれらの種子はどこから来たのでしょうか。「それは前世、およびその人のこれまでの人生で経験したモノ」と言います。
ここでさらに二つの問題が生じます。

 2)-1 それなら、今まで経験したことのないモノが目の前に現れたらどうでしょう。阿頼耶識にはその種子はありませんね。とすれば当然、見ることも、聞くことも、嗅ぐことも、味わうこともできないはずですね。そもそも、「(前世および)これまでの人生で経験した」と言っても、それらの最初の経験以前にはそれらの種子はなかったはずです。たとえば近代文明に接したことのない人がテレビやラジオを見たり聞いたりしても認識できないことになります。
 2)-2「前世(およびこれまでの人生)で経験した」と言うなら、輪廻転生を前提にしていることになります。釈迦は輪廻転生を否定したのではないでしょうか。
 たしかに、
 ・・・「仏教も教えを広めるにあたって(つまり大乗仏教では:筆者)、インド古来からの輪廻の考えを取り入れた」とか、「唯識思想は、阿頼耶識(深層心理)が輪廻することで、無我だけど輪廻するという世界を解き明かした思想だ」・・・
という考えもあります。しかし、上記のように「空」の思想を下敷きにしている唯識で、「阿頼耶識(意識)が輪廻する」とはどういうことでしょう。「意識という実体がある」というのでしょうか。それとも「実体のない意識が輪廻する」と言うのでしょうか・・・。

「仏教の経典をあれこれ読むと泥沼に入る」とはこういうことなのです。

 問題点その3)
 唯識思想が発想されたのは、上に述べたように、やはり苦しみから救われるための理論的根拠としてでしょう。しかし、やはり人やモノはまちがいなく実在するのです。東日本大震災や熊本大地震で大切な人を亡くした遺族に「あの人の実体はなかったのです」とい言っても納得するはずがありませんね。それでは心の癒しにはなりません。やはり、唯識思想には無理があるように思います。禅では「人やモノは実在する」とみなします。「色(しき)」です。「色と空という二つの見かたで観たものこそ実体だ」と言うのです。ここが禅のすばらしいところなのです。

6 thoughts on “唯識と禅(1- 3)”

  1. 瞑想を深めれば、自分はパッパッ、と移り変わってゆく思考の連続そのもので、世界も自分の考え、幻なのだと解る。 また、一切の事柄は、自分も含め考えだから、あらゆる事柄に本当の根拠はない。神、無条件の愛、いま、ここ、など、[これ]が大切だ、というのは本当はない絶対的なものにたいする執着だ。これらを理屈抜きで理解し、あらゆる考えに対する囚われ(自分は在る、苦等)を手放すことが悟りだ。と、とあるサイトに書かれていて、自分が辛いのも、結局自分に対する執着なのかなあ、と思ってしまいました。

    1. gabaebさん(できればお名前をお聞かせください)
       メール拝読しました。他の読者の皆さんにも興味があるテーマだと思われますので、次々回のブログで筆者の考えをお話します。現時点で言えることは、あなたは唯識の「蟻地獄」にハマっていらっしゃるのです。大丈夫です。抜け出せます。このサイトの内容をもう少し詳しく教えてください。できればサイトのアドレスを教えていただければ、記事を読みます。もちろん、そのアドレスはすぐに当欄から消去します。毎日チェックしていますのでご心配なく。

    2. 今、お答えを書いていますが、ひょっとしてあなたのお気持ち(疑問点)について勘違いしているかもしれません。それを防ぐために、もう少しあなたのお気持ちをお聞かせください。
      ハンドルネームはgabaebとさせていただいていますが、それでもかまいませんか?

    3. gabaebさん
       「読者からの質問」として、本文に書きましたがお読みいただけましたか?

  2. 明治から大正にかけて旧制高校の文学青年の間でドイツ哲学が大流行したのは常識の域だと思うが、西田が「旧制高校の頃、そういう考えを持った」からドイツ観念論とは別個に成立した思想だと言うのはさすがに知識人をバカにしすぎではないか
    今でも早熟な人は中学生でも哲学書を読みますよ

    1. tmv5様
       メールうれしく拝読しました。
       当時の高校生の読書事情についてはまったく不案内ですが、西田がその後西田哲学という一大体系を作り上げたことは確かです。「そんなことは僕も考えていた」と言っても、
      所詮「負け犬のなんとやら」になってしまいます。
      アメリカ大陸を発見したのは、じつはバイキングはコロンブス以前何度もアメリカ大陸を訪れていたと言われています。
      では、後のコロンブスだけなぜ発見の栄誉を与えられたか?歴史的に初めて旧大陸と新大陸を結び付けたからです。
      西田の偉大さはそこにもあるのです。学問とはそういうものなのです。

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