澤木興道師(1-3)禅語「谿声山色」「諸行無常」「悉有仏性」

澤木興道師(1)禅語 谿声山色

 筆者のブログを読んでいただいている人の中には、かなり踏み込んで禅を学んでいる方もいらっしゃるようです、そこで、今回はもう少し立ち入った話をさせていただきます。

 澤木 興道師(1880 – 1965)は、昭和を代表する曹洞宗の名僧と言われています。自分の寺を持たず、清貧を旨とし、ひたすら仏教の教えを説いて回り、「本来の仏の心に戻れ」と説き続けた人です。もと駒澤大学教授。内山興正師、西嶋和夫師、村上光照師など、多くの人に影響を与えました。西嶋師や村上師などは、澤木師の影響で人生の方向を変え、出家したほどです。
 しかし、筆者には師が釈尊や道元の思想を正しく理解していたとは思えません。その理由を、澤木師が、
 ・・・世界の人がたった一つの信仰をするというのなら、これにしてもらいたい。そうしたら世界中の人が、一切文句がなくなると確信している(註1)・・・
と絶賛する道元の「正法眼蔵・谿声山色巻」を題材にして、述べてみたいと思います。

(註1 筆者は、そもそも、道元の思想は「正法眼蔵」のうち「現成公案編」に集約されていると思います。前著「禅を正しく、わかりやすく」(パレード社)でも述べましたように、「谿声山色」を含む他の巻は「現成公案編」の解説にすぎません。澤木師は「現成公案編」の重要さがわからないまま、下記のような解釈をしているのだと思います。)

それはさておき、澤木師は著書「正法眼蔵講話‐谿声山色」(大法輪閣)で、道元の「正法眼蔵・谿声山色巻」の一節、
「恁麼時の而今(いんもじのにこん)は、我も不知なり、誰も不職なり汝も不期(ふご)なり、仏眼(ぶつげん)も覰不見(しょふけん)なり。人慮(にんりょ)あに測度(しきたく)せんや」を、

・・・眼が開けさえすれば、別に何もことさらに知ることは要らない。それは別に勉強して、書物で調べるということでもなければ、聞いて知ったんでもない。つまり現なまの全体をいずれにも曲げられないで見ることである・・・

と解釈しています。また、「山色の清浄身にあらざらん、いかでか恁麼ならん」を、
・・・山色が清浄身であり、渓声が広長舌であるから、桃の花を見てかくのごとく道を明らめ得られるのである(註2)。「恁麼」というのはかような道理と言うことであって・・・
と解説しています。しかし、これらはおよそ的外れの解釈です。明らかに澤木師は「恁麼(註3)」や、「而今」の意味をわかっていないのです。これらは禅を理解する上でのキーワードです。「而今」の意味は別のブログですでにお話しました。「恁麼時の而今」の正しい意味は、
 
 ・・・「空」すなわち、「一瞬の体験」にあっては、「〇〇である」と判断することなどできず、「恁麼すなわち、なにかあるもの(を体験した)」としか言いようがない・・・

という意味です。道元のこの巻の冒頭に突然「恁麼時の而今」が出て来るのは、「空とは体験である」という思想が「正法眼蔵」の主旨だからです。「恁麼」や「而今」の意味がわからないことは、道元の思想そのものがわかっていないということなのです。
 
「山色の清浄身にあらざらん、いかでか恁麼ならん」の正しい解釈は、

 ・・・谿声山色(谿川の音や山のありさま)が仏の清浄な姿でなければ、どうして空、すなわち体験を『なにかあるもの』と言えようか・・・

です。
 
 澤木師はまた、「しるべし、山色谿声にあらざれば、拈華も開演せず」を、

・・・山色谿声の道理は全宇宙イッパイということで・・・(中略)・・・宇宙イッパイが仏である・・・(中略)・・・しかし、その門口のところに、もしゃもしゃしている我痴、我見、我慢、我愛のこの煙幕を取れば谿声山色そのまま法性真如であり正法がそのまま実相である・・・

と解釈しています。澤木師も「谿声山色」を「谿川の声、山のたたずまいが、そのまま仏法の表われだ」と解釈してます。ちなみに「宇宙イッパイ」とか「宇宙とヒタ一枚」が澤木師の常套句です。弟子たちもよく使う言葉です。紙数の制限からくわしい検討は省きますが、要するに澤木師の思想のエッセンスは、
 
・・・我欲を捨てなさい。地位や財産、美醜などのこの世の価値は仏道とは何の関係もない。それらから離れれば仏、すなわち全宇宙と一体(宇宙イッパイ)になれる。谿声山色はそのまま仏の姿である・・・

でしょう。つまり、道元の「谿声山色巻」は一見、澤木師にとって、その思想を述べるのに好都合だったのでしょう。しかし、それでは仏教の通俗的解釈になってしまいます。道元がそんな通俗的な解釈をするはずがありません。そもそも谿声山色の解釈がまちがっているのです。その理由は次回お話しますが、端的に言いますと、ここでも道元は「空」の理論を説いているのです。
「拈華微笑(註4)」の意味は、どの本を読んでみても「以心伝心」と書いてありますが、じつは「空」を表わしているのです。なぜ道元の「谿声山色巻」で「恁麼」とか、「而今」とか、「拈華微笑」など、「空」を表わす言葉がつぎつぎに出て来るのか、そこを読み取らなくてはいけないのです。

註2 霊雲志勤禅師が桃の花を見て悟った有名なエピソード。「谿声山色巻」でも道元が紹介しています。
註3「恁麼」とは、「なにかあるもの」の意。宋の俗語と言われています。
註4 拈華微笑(拈笑華微 ねんしょうかび、とも)。文献にはなく、後に誰かが禅宗を箔付けするために創作したエピソードとも言われています。筆者も同感です。じつはよく禅の本質を突いているのです。

澤木興道師(2)禅語:「諸行無常」

 このシリーズでは、さまざまな禅語について、澤木師の解釈と比較しながらお話しています。他人の説を批評するのは本意ではありませんが、比較しないと筆者の考えもよく伝わらないと、あえて澤木師を対照として取り上げさせていただきました(以下「禅を語る」《大法輪閣》から。なお、この本は澤木師の講演を筆録したものですから、文章としての不完全さには甘んじなければなりません。澤木師は寺を持たず、清貧の生涯を送った人です。それゆえ多くの人々の共感を呼び、全国各地に招かれて講演しました)。澤木師の思想のエッセンスは「我執を捨てれば仏と一体(宇宙いっぱい)になる。坐禅をすれば仏になる」でしょう。

 澤木師は、仏教用語我痴の意味を説明するのに「正法眼蔵・現成公案巻」の一節、

「仏道をならふといふは,自己をならふなり。 自己をならふといふは,自己をわするるなり。自己をわするるといふは,万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは,自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり・・・」を引用して、

 ・・・「おまえは何だ」と言われて、何だかわからん・・・偉そうな顔をしてまわりに言うて聞かせているけれども・・・。下役に怒っている重役さんでも、自分がわからん.分からんと言うのは、自己の仏性が分からん。仏さんとちっとも違わんということが、はっきり分からん・・・

と説明しています。明らかに澤木師はこの一節を「どんな人にも仏性があることを自分自身は分からない(我痴)」と解釈していますが誤りです。じつは、ここでも道元は「空」理論の説明をしているのです。すなわち「自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」とは、「純粋経験にあっては見る自己も見られているモノ(他己)も無くなる」という意味です。

 また、「色にあらず、また空にあらず、楽しみもなく、また愁いもなし」の詩を、

・・・色といえば有形なる物質ですよ。空といえば何もないことですよ。楽しみがあって、楽しみがなくなるのが愁いですよ。だから、楽しみがあれば、それがなくなるのが愁えだから、それもやがて・・・(中略)・・・愁えのくる元が楽しみですよ・・・

と言っています。「空といえばなにもないことですよ」とは!なんども繰り返しますが、「ある」とか「ない」の問題ではないのです。拙著でも述べたように、「空」は、日本語ではどうしても「からっぽ」とか、「空虚」のように受け取ってしまうため、「なにもない」と解釈してしまうのでしょう。「空」と「無」をどう区別するかを、わが国の僧侶達は古くから頭を悩ませてきたのです。いや、悩ませてきたのならまだいいのです。悩みもせずに言葉そのままに弟子たちに伝えてきたのでしょう。それにしても澤木師は「空」の意味がまったくわかっていない、としか言いようがありません。「空」の意味がわかっていなければ、禅がわかっていないということです。 

 澤木師はさらに、

・・・(「証道歌(註5)」には)「諸行は無常にして一切空なり、すなわち是如来の大円覚」とあって、無常ということは味気ないことで、この味気ない瞬間に永遠の道を解決するのである・・・

と言っています。
澤木師が「無常」を「無常観」、すなわち虚無的なものと解釈していることは、「私は日露戦争に従軍して・・・わずか一昼夜の戦闘で・・・わずか一里もない狭いところで六千の死傷者を出したのを見て無常を感じた」と述べていることから明らかですね。「諸行は無常にして一切空なり」も、およそ澤木師の言うような意味とは違います。江戸時代以降、現代に至るまでのほとんどの僧の解釈そのままです。つまり「諸行」とは「すべてのモノゴト」、「無常」とは言葉どおり「常ならぬ、つまり一瞬」の意味、つまり、「諸行は無常にして一切空なり」の真意は「すべてのモノゴトは一瞬の体験である」です。

(註5 永嘉真覚(665-713唐時代の僧)の著。六祖慧能の法を一晩で嗣いだと伝えられています。證道歌は独特の韻を踏んだ247句1814文字より成る偈頌。澤木師自身による訳書があります。)

 澤木師はさらに道元の、「まさに正法にあはん(会わん)とき、世法を捨てて、仏法を受持せん。つひに大地有情とともに成道するをえん」を、

・・・正法が現成したならば、世法の利害得失、生まれる、死ぬる損得、禍福、吉凶、これらはみな世法である。この世法を捨てて仏法を受持するときは己を捨てて法ばかりになるんじゃから、己というものが忽然としてなくなれば、宇宙一ぱい、だから大地有情とともに成道することをえん。こういう請願を起こすのである・・・

と解釈しています。この解釈は誤りです。道元の真意が「世法の利害得失、生まれる、死ぬる損得、禍福、吉凶」などの卑俗なことにあるはずがありません。「正法眼蔵」は道元の格調高い哲学、すなわち、「革新的なモノゴトの観かた」を伝えているのです。澤木師はけっきょく、自説「この世の価値に執着する自我を離れよ」と結び付けたいのでしょう。道元の思想は、そんな下世話な考えとは次元が違うのです。
この一節の真意は、

 ・・・正しいモノゴトの観かたに出会ったとき、それまでの考え方(世法)を捨てて、仏法(正しいモノゴトの観かた)に従おう。そうすれば自分だけでなく、そういう観かたで把握された自然(モノゴト)のすべてが正しく、あるべきように姿を表す(現成する)のだ・・・

です。ちなみに「大地有情とともに成道する」は、禅でよく言う表現です。「モノゴトの体験によって初めて、観られるモノ(他つまり大地有情)が現われ、観られたモノが現われたことで、観た者の存在が証明される」という意味です。そして、「体験そのものだけがあり、そこには自も他もない」のです。「体験の主観的部分が私、客観的部分がモノ」なのです。「モノが現れる」と言いながら「モノはない」と言っていますが、これらの文章は矛盾していないのです。それらが「自他一如だ」、これが禅の要諦です。

澤木興道師(3) 禅語「三界唯一心、心外無別法」「悉有仏性」

澤木師はまた、

・・・仏教には「三界唯一心、心外無別法」ということばがある。三界唯一心、つまりすべてのものはみんな心で、現実にあるのか、ないのかわからない。あるのか、ないのかいうのはわかりゃせぬ。われわれの心でみな作っているのだ。自分にとっていい世界、悪い世界というのを、めいめいが自分で作っている・・・

と言っています。「三界唯一心、心外無別法」というのはやはり道元の思想の根幹に触れる言葉です。しかし澤木師の言うような意味とは異なります。澤木師はすぐに「いい」とか「悪い」の問題にしてしまいます。禅思想では、「三界唯一心、心外無別法」を「唯仏是真」とも言い、「正法眼蔵」や、「永平広録」などの道元の著作や、各種の「公案集」の随所に出てきます。「心の働きであるモノゴトの体験こそ、真の実在である」という意味なのです。「心」を澤木師のように解釈してしまうのが麻薬宗教の「麻薬」たるゆえんでしょう。澤木師が、麻薬宗教から一歩も出ていないことは、これらの証拠から明らかです。

澤木師はさらに、

・・・涅槃経の中には「悉有仏性(しつうぶっしょう)」という。だれでも仏さんとちょっとも違わず。法華経というものの中には「諸法実相」と。実相ということは般若ということで、般若の知恵ということで、一切のものがなんの差別もない、みんな平等なんじゃ。学問があろうがなかろうか、金があろうかなかろうか、器量が好かろうか悪かろうが、皆ことごとく諸法実相じゃ・・・(中略)・・・この実相でないものは、世界に何にもない。これがすなわち仏法というものですよ。誰でもみんな仏さんとちっとも違わない。自分のすることが皆これ仏様の行である。この仏様の行はだれでも出来る。それは、合掌すれば仏様と一枚になる・・・

少し引用が長くなりましたが、これが澤木師がいろいろな場所で、繰り返し説いた思想の骨子であると思われ、紹介しました。「悉有仏性」を澤木師が文字そのままに「すべての人には仏性がある。本来は仏である」と理解しているのは明らかですね。「悉有仏性」はそういう意味ではないのです。「悉有仏性」をそんなふうに解釈しているのは、親鸞など、浄土系の人々であり、同時代人である道元は、その解釈を「永平広録」で厳しく批判しているのです。すなわち道元は、はっきりと「悉有は仏性である」と言っているのです。「すべてのものが仏性(仏の法則)に従う」、つまり、「宇宙に存在するすべてのモノ(悉有、禅ではよく山河大地と表現します)や現象を、人がモノゴトとして体験することが真の実在だ」という意味なのです。「諸法実相」についても、澤木師はまちがって解釈しています。正しい意味は、「(釈尊が見つけた)正しい観かたで観たこの世のすべてのモノゴトこそ、真実だ」という意味です。

 筆者が尊敬する橋田邦彦先生(元東京大学医学部教授・文部大臣)は、澤木師とほとんど同時代の人です。もちろん、澤木師のことは知っておられたでしょう。しかし、橋田先生はそういう専門家たちの著書を一切無視して、独自に「正法眼蔵」の解読を試みました。私たちもその理由を考えなければなりません。へたに弟子になれば、師の影響を受けないはずがありませんから。あの良寛さんも曹洞宗出身ですが、そこを飛び出した人なのです。澤木師の弟子村上光照さんは、論理を一切離れ、修行専心の生活を送っておられます。

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