いまここで死ねますかー暁烏敏の他力思想

 以前、このブログでお話した浄土真宗の暁烏敏(あけがらすはや)の言葉です。強烈なテーゼですね。暁烏師のこの言葉を、「神の心に近づくには死ななければならないのか」と解釈している人たちがいましたので註釈させていただきます。
 その解釈には飛躍があります。暁烏師が言いたかったのは、「いまここから飛び降りられますか」とか、「毒を飲めますか」ではありません。たとえば「いまここで、『あなたは末期ガンです』と宣告されても平常心を保てますか」という意味なのです(暁烏師は人騒がせな人ですね)。

 前にもお話した良い例があります。
 永井隆博士(1908-1951)は、元長崎医大教授、「長崎の鐘」や、「この子を残して」の著者としてよく知られています。一般には「原爆症で亡くなった」と言われていますが、じつは、それ以前から重い放射線障害に苦しんでいました。博士は放射線学科に長く勤めており、当時のことですから、放射線漏れによる障害が医師にとって深刻だったのです。自分の余命を悟った博士は緑夫人(原爆で一片の骨とロザリオが残ったと永井博士は書いています)にそのことを告白しました。すると、永井博士自身より長いキリスト教信者だった夫人は、

「なにごとも主の御心のままね!」と答えたそうです。

 次は、最近筆者の友人から聞いた話です。癌で入院している人をお見舞いに行った時のこと。その人も敬虔なキリスト教者でしたが、命旦夕に迫っているにもかかわらず、「病室で静かに読書していた」と言うのです。この人も「神の御心のままに」だったのでしょう。

 いかがでしょう。暁烏敏の「いまここで死ねますか」の真意はこういうことだったと思います。

「死ねば神の心に近づくのかどうか」は筆者にはわかりません。たしかにスピリチュアリズムの考えでは、人間は死んでからしばらくすると、守護霊とともに自分のこの世の人生をビデオのように再生し、生まれるとき持って出た、果たすべき課題を完遂できたかどうかをチェックすると言います。というのは誰でも今生に転生するのは、その課題を果たすためだと言うからです(生まれるとその課題のことは忘れてしまうとか)。もしビデオを見た結果が不満足だったら、守護霊と相談の上もう一度この世に生まれ変わるとも言います。
 こういうプロセスが本当にあるとすれば、たしかに自分の生命全体を俯瞰することになり、神の心に近づいたことになるでしょう。しかし、私たちはそんなことを考えるべきではないと思います。釈迦のおっしゃる「無記」、つまり、「わからないことは考えるな」ですね。

 そんなことより、自分が神によって造られ、神の恩寵によってこの世で生かされていることを改めて考え、心の底から感謝すべきなのです。そして、神の心に沿う生き方とは何かを、自分なりに真剣に考える方がよほど大切でしょう。これが本当の他力思想なのです

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