なぜ「空」思想が大切か(1-5)

なぜ「空」の観かたが大切か(1)

 いよいよ「空」理論の本題に入ります。今回は、筆者がお話してきたことの簡約です。

 禅を理解するのに一番大切な言葉は「空」ですね。これまで高名な禅師でも、正しく理解した人は、筆者の知るかぎりほとんどいません。

 このブログシリーズでくわしく検証してきましたように、たとえば「空とは実体のないこと」と解釈した人たちがします。澤木興道師の弟子・松原泰道師などです。これらの人たちは、お釈迦様の教えの一つである縁起(因果)の法則を誤って理解し、援用しているのです。「縁起(因果)の法則」とはふつう「あらゆるモノゴトには原因がある。原因がなければ結果としてのモノゴトはない」と解釈されています。しかし、お釈迦様がおっしゃっているのは、「あらゆるできごとには原因がある」であり、現象を指し、モノまでは含んでいないのです。つまり、「あなたの今の苦しみや悩みには必ず原因があるので、それを突き止め、取り除くかこだわりをすてなさい」と言う意味なのです。筆者がよく、そういう解釈をする人の目を覚まさせるには「ポカンとたたいてやりなさい」とはそのことです。「痛い」と怒るでしょう。それが肉体という実体があることの証拠ですね。

 「空」理論を初めて体系化したのは龍樹(ナーガールジュナ)だと言われています。龍樹も縁起の法則に基づいて「空理論」を完成したと言われています。しかし、前にお話したように、般若心経で言う「色即是空」の「空」は、龍樹の「空理論」とはちがうのです。

 松原師などが言うもう一つの根拠は、「空」を、あらゆるモノは変化するから実体はないと解釈するものです。筆者が30年前、初めて禅に関する本(松原師の著作!)を読んで違和感を感じたのはこの点なのです。無常も釈迦の教えの基本だとされています。しかし、「空」の解釈に「無常の概念」を援用するのも間違いなのです。たしかにモノは常に変化しています。私たちの体の成分も常に合成と分解を繰り返していることはよく知られています。しかし、だからと言って実体がないのではありません。まぎれもなく実体はあるのです。「固定的な実体がない」ということを、「実体そのものがない」と概念を広げてしまうから間違えるのです。

 もう一つの誤った解釈の例は、西嶋和夫師のものです。東京大学卒で、長く一流会社の役職についていた人ですが、やはり澤木興道師の影響を受けて、専門の僧になった人です。「正法眼蔵提唱」という大著もあります。西嶋師は「空とは、無でもない、有でもない絶対無」と解釈しました。さすがに空を無とは言えなかったからでしょう。しかし、「絶対無」とはどういうことでしょう。ますますわからなくなってしまいますね。
 
鈴木大拙博士
日本語で書かれた「色即是空」についての鈴木博士の解説はありませんので、英文そのままを示しますと、
 ・・・form is here emptiness, emptiness is form; form is no other than emptiness, emptiness is no other than form・・・
筆者訳:形あるものは空っぽである。空っぽなものは形あるものである。形あるものは空っぽ以外の何ものでもない。空っぽなものは形あるものである以外の何ものでもない。

いかがでしょうか。筆者には意味がよくわかりません。

なぜ「空」思想が大切か(2)‐而今(いま、ここに)(i)

 筆者はこのブログシリーズで、「空とは私がモノゴトを見る(聞く、さわる、嗅ぐ、味わう)その瞬間の体験だ」と繰り返しお話してきました。このことを念頭に入れて以下をお読みください。
 「空」のモノゴトの観かたがなぜ大切かを理解するには、まず禅の重要な概念である而今(いま、ここに)の意味を知らねばなりません。この言葉は、作家の中野孝次さんが座右の銘にしていました。

よく、而今の意味を誤って解釈している人がいます。よくあるのは、

・・・ 過去を悔やむな、 まだ来ていない未来に不安を抱くな、事態は何も変わらない。「今、この瞬間」に心を向けて懸命に取り組むことが大切だ・・・

というものです。中野孝次さんもそのように解釈していたのではないかと思います。

 道元は「正法眼蔵・巻十四山水経」の中で、

 ・・・而今の山水は、古仏の道現成なり。ともに法位に住して、究尽(ぐうじん)の功徳を成せり。空劫巳前の消息なるがゆえに。而今の活計なり。朕兆未崩の自己なるがゆえに、現成の透脱なり・・・

と言っています。「今ここに見えている山や川は、仏法そのものの現われだ」という意味です。この一節の後半の部分について、曹洞宗 東海管区強化センターHPの解釈は、

 ・・・ その「而今」とは、単にいわゆる「今」ではなく、「正法眼蔵・有時(うじ)」の巻で問題とされた「而今」であります。つまり無限の過去から現在に到る今であり、永遠の未来をひっくるめた今であります。時間空間をあげて「而今」の他に何もない、それは無限の過去を経過してきた存在であり、同時に無限の未来を将来する存在でもあります。時間は空間をはなれては存在しない。また、空間のなき時間も有り得ないのであります。それで時間といっても、空間といっても、自己といっても全く同一物であり、これを「而今」という言葉で言い表しているのであります。眼前の山水も「而今なる山水」として真理の現成であり、仏さまやお祖師さまの仏法の現成であります。山も水もあるがままにあるべきようにあって、さまざまな姿を現しているのであります。このことが「古仏の道現成なり、ともに法位に住して、究尽の功徳を成せり」であり、山は山、水は水で究尽の功徳を成しており、山は三世十法尽くしており、水は全宇宙を尽くしているのであります。悟りの姿であります。本来の自己、悟りの相であります。それはこの世界の成立以前の消息であって、それが今も生きてはたらいているのであります。万物の兆しもない、いにしえからのことであり、その現成は古今を貫くものであります。而今であります(一部筆者の責任で省略) ・・・

となっております。これではなんのことかわからず、さらに解説が必要でしょう。下手な同時通訳と同じで、「言っている言葉は平易だが意味がわからない」でしょう。

 道元が「有時(うじ)巻」で言っているのはとても大切なことですから、次回改めてお話します。肝心なところだけ言いますと、

 ・・・人間が生きているのは今この一瞬だけだ。そのときの生きいきとした体験こそが真実だ・・・

です。なんらの価値判断も加えない、純粋な体験そのものこそ、モノゴトの正しい認識なのです。これが「空」のモノゴトの観かたなのです。以前、生きているということをイメージで次のようにお話しました。

 ・・・人間の一生とは、きわめて大きな円の円周を歩いているようなものです。真中に生命の根源=神がおられ、そこから生命の光ビームが一人ひとりの人間を照らしている。生命のビームによって照らされている時だけ真に生きている。その一瞬一瞬の連続が人生だ・・・

というものです。過去とはもうその生命のビームが消えてしまった時、未来とは未だその光によって照らされていないときなのです。
 いかがでしょうか。而今(いま、ここ)とはこういう大切な時と場所なのです。この大切な いま、ここでの体験こそ、正しいモノゴトの観かたなのです。

なぜ「空」思想が大切か(3)-而今(にこん、いま、ここに)(ii)

 「空」を理解するには「而今(にこん)」を知ることが大切だとお話しました。その理解の手助けになるのが、「正法眼蔵・有時(うじ)」の巻です。前回、曹洞宗東海管区教化センターHPの解釈を紹介し、「これでは解説の解説が必要だ」とのべました。道元が「有時」で言っていますのは、

 ・・・いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり・・・

です。ここで「有」と言っているのは、曹洞宗東海管区教化センターの解釈では「空間」としています。空間という抽象的な概念は道元の時代にはなかったと思います。「存在(モノ)」ということでしょう。そして、「有時とは、時間は空間を離れては存在しない。空間のない時間はありえない」という意味だとしています。つづいて「時間と言っても空間と言っても自己と言っても同一物でありそれを而今と言う言葉で言い表している」としています。これでは何のことかわからないでしょう(註1)。筆者の解釈は以下のとおりです。

 まず、「有」とは存在(モノ)ではなく、「モノゴト」と考えるとわかりやすいです。「できごと」ですね。「できごと」かならず初めと終わりがありますから、時間の経過があります。とすれば、「時間なくしてモノゴトはない」のは当然です。

註1:現代物理学の知識から言えば、時間がなければモノはありません。原子を構成する電子や核内の素粒子は運動しているからです。運動するということは時間があるということです。しかし、もちろん道元の時代にはそんな知識はありませんから、なぜ道元が「時間がなければモノはない」と着想したのかわかりません。瞑想によるインスピレーションかもしれません。

 つぎに、「モノと自己は同一である」。これもよくわかります。なぜなら筆者が言う「空、すなわちモノゴトの体験」にあっては、モノと自己は同一(一如)だからです。

 つづいて道元は、

 ・・・尽界にあらゆる尽有は、つらなりながら時時なり・・・

と言っています。重要な概念で、ここでも「有」をモノゴトと理解するとよくわかります、すなわち、「この世のすべてのモノゴトは一瞬の(体験の)連続だ」と言う意味です。あらゆるモノゴトは、生じては滅し、滅しては生じていく。その連続であり、その連続が時間だと言うのですね。逆転の発想で、驚くべき慧眼だと思います。西田幾多郎はこれを「不連続の連続」だと言いました。

 つまり、過去はありましたし、未来もあるのです。しかし、私が生きているのは「いま、ここだけ」なのです。今ここにいる私は神につながる「生きた人間」です。その「生きた目(耳、鼻・・・)で認識している一瞬の体験こそが真の実在なのだ」という意味です。よくテレビで画面に「Live」と出てくることがありますね。「この映像は過去に撮ったモノではなく、現在撮影しているものだ」という意味ですね。「Live」と断らなければ、過去の映像か、今の様子かはわかりません。しかし現在の映像であることはとても大切ですね。
 一瞬の体験にあっては、どんな判断も感想もありません。思慮分別は一切無いのです。禅で「鳴らぬ前の鐘を聞け」と言います。けっしてわけのわからない禅問答なのではなく、真実を表わした言葉なのです。これが禅のモノゴトの観かたなのです。

なぜ「空」の観かたが大切か(4)-而今(にこん)(iii)

 「空」の思想を理解するには、禅語の而今(にこん)を理解することが大切だとお話しました。今回は、「空」のモノゴトの観かたがなぜそんなに重要かについてお話します。

今日一日を生ききる

 ホスピス研究所岡崎代表金田亜可根さんは、8年前から自宅を開放してガン患者のお話を聞く会を開いています。余命〇〇ヶ月と宣告された人、すでに何度も手術をした人、そして遺族の人たちに食事を提供し、いっしょに食べながら真心こめて患者たちの胸の内を聞くのです。テレビ報道を視聴して印象的でしたのは、金田さんは「癒しの場とか、安らぎの場を提供するのではない。それは上から目線になってしまうからだ」と言っています。医療・介護をする上でとても大切な気持ちだと思いました。
 さらに強く心に残ったのは、そこに集ってお話をする患者さんたちが、とても明るいのです。でもその理由は筆者が感じたのとは違いました。金田さんは言います「あの人たちは、いつガンが再発するのか、いつ容体が悪化するのかはわからない。だからこそ、今、ここで生きていることをとても大切にしていらっしゃるのです」と。いかがでしょうか。味わい深いお話ですね。ガン患者さんたちは、文字通り命懸けでこの真理を体得されたのでしょう。

つぎもこの真理をギリギリの状況の中でつかんだ舞台美術家の妹尾カッパさんの言葉です。(「少年H」講談社文庫)。前著「禅を生活に生かす」でも紹介しましたように、

妹尾さんは、神戸大空襲で実家が焼け落ち、街はつぎつぎに飛来するB29の大編隊が投下する焼夷弾で火の海になった。その中を逃げ惑い、やっと開けた野原にたどりつき命拾いしたと言います。その時、クリスチャンだったお母さんが口にした言葉が「感謝やね」だったのに驚き、「自分の家が焼け、こんな目にあってもか!」と怒鳴ったと言う。するとお母さんは「怪我もしないで今こうして生きているじゃないの」と言われ、参ったと書いている。「今生きている。その言葉が妹尾さんのその後の人生の一番大事な言葉になりました。「明日は分からないが今生きている。今、今、今が重なって明日になり、明後日になる」。「明日生きて友達に合えるかどうか分からない」生きるか死ぬかの瀬戸際になっても神を信頼できるお母さんの信仰の力の凄さでしょう。そして、妹尾さんが体得した「明日はわからないが、今生きている、そのことに感謝する」との思いは、ギリギリの状況であっただけに本物でしょう。これは「空」の思想、「ものごとの体験は今のみ、過去も未来もない」と共通し、禅で言う而今(今ここ)の禅の考えそのものですね。

真実は今ここの一瞬に現れる

  日本画家の田淵俊夫さん(1941-)は現在再建中の薬師寺食堂を飾る阿弥陀三蔵像を描いた人です。田淵さんは言います「植物にしろ動物にしろ、対象は十分に観察します。それらのものはつねに変化していますが、そのうち、その本質が一瞬に現われる線として見えます。それをとらえるのです」。何十年と自然の姿を見てきた人の究極の境地だと思います。まさに筆者の言う「空」の思想ですね。
 筆者も長年携わって来た生命科学の研究生活で、同じようなことを考えていました。勉強もしますし、真剣に考えねばなりません。しかし、いま振り返ると、研究のアイデアや進め方は、すべて一瞬に決まりました。

なぜ「空」思想が大切か(5)
 過去はあった‐正しい禅
 
これまで「而今(にこん、今ここ)」と言う禅の重要な言葉についてお話してきました。「而今」の解釈としてよく「過去はない。未来はまだ来ない。あるのは現在だけだ」と言われています。たとえばある人は、「アーナンダ賢善一喜経」(「原始仏典 中部経典4」(第7巻)中村元監修 春秋社)にある「およそ過ぎ去ったものは捨てられたものなり」を引用して「而今」の意味を解説しています。しかし、本当に過去は捨てられたものでしょうか。あの東日本大震災や熊本大地震で大切な人を亡くした人、交通事故でかけがえのない子供を亡くし人たちが「過去はありません」と言われて救われるはずはありませんね。到底納得できない教えを説かれても心は癒されないでしょう。

 じつはこういういう解釈は誤りなのです。「あらゆるものは変化する」は、仏教の基本的な教えとされています。禅でなくても科学的事実として、あらゆるものが変化するのはまぎれもない事実です。しかし「過去はない」のではありません。「変化はしているがモノゴトはある」のです。まぎれもなく過去はあったのです。それらをゴッチャにするから「釈然としない」のです。

 道元は「正法眼蔵」「現成公案編」で、
・・・たき木(薪)、はい(灰)となる、さらにかへりて(返りて)たき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきあり、のちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちあり、さき(先)あり。かのたき木、はいとなりぬるのち、さらにたき木とならざるがごとく、人のし(死)ぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるとい(言)はざるは、仏法のさだまれるならひなり、このゆえに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり、このゆえに不滅といふ。生も一時のくらいなり、死も一時のくらいなり。たとへば冬と春とのごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるとい(言)はぬなり・・・
と言っています。まさに「而今」の思想ですね。
 ・・・薪は薪の法位に住して、さきあり、のちあり・・・灰は灰の法位にありて、のちあり、さきあり・・・ 生の死になるとい(言)はざるは、仏法のさだまれるならひなり・・・
「生が死になるのではない、生は生、死は死だ。前後は切れている」と言うのです。味わうべき言葉ですね。

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