わが国の華厳思想と禅(1-3)

華厳思想と禅(1)

 華厳経(正式には大方広仏華厳経)は紀元400年頃、西域(中央アジア、コータンなど)でまとめられた大乗経典の一つです。ただ、その中心思想「十字品」「入法界品」はそれぞれ独立した経典としてそれ以前から伝わっていました。それらを核にしてまとめたものが華厳経でしょう。西域は、インドの東北部とつながっており、仏教の拡大とともに、その思想が濃密に流れ込んできたことはよく知られていますね。その後中国、朝鮮を経て736年に日本へ伝えられ、東大寺などにおける根本経典として重視されています。華厳経を信じる人達は今でも「ブッダが悟りの後、最初に説かれた重要な教えである」としています。これは法華経が「ブッダが亡くなられる前の最後に説かれたもっとも大切な教えである」とする説と同じように、歴史を無視した牽強付会であることは明らかです。これが現代のわが国の大乗仏教の大きな問題点でしょう。

 華厳経のエッセンスは「宇宙の、人間を含むすべてのものは相互に関連し合い、影響を及ぼし合っている」という、「一即多・多即一」「重々無尽」「事事無碍(じじむげ)」の思想です。「インドラの網」と名付けられた仮定した大きな網の目の一つ一つに宝石が吊るされており、それぞれの石の中に他の宝石のすべての輝きが反射されているように、すべての人やモノはつながっていると言うのです。しかしこの思想は、華厳経が成立した300年前に、インドの龍樹によって大成された「空」の思想そのものです。以前お話したように、そもそも「空」の思想は龍樹より100年前から、多くの無名のインド哲学者によって盛んに唱えられてきました。以前のブログでもお話したように、「空」の思想は、釈迦の「因果の法」が発展した「縁起の法」が変質したものです。それがさらに変化して華厳思想になったのですね。このように、釈迦の思想が次々に拡大されていったのが仏教の大きな特徴です。

 華厳経のもう一つの重要な思想は、「存在するものは、すべて心の表われである」という考えです。しかしそれも、いわゆる「唯識思想」(前述)として、はるか以前から知られていたものです。現にあの龍樹(やはり唯識思想の大成者で、「唯識思想」を大成した無着、世親の200年も前の人。華厳経は無着・世親の時代よりさらに100年後に成立しました)も「十字経」という唯識思想の注釈書「十住毘婆沙論」を書いているのです。つまり、「十字経」は龍樹の時代の前から知られていたのです。そしてそれは後に華厳経に取り入れられ、「十字品」となったのです。
 
 木村清孝博士(東京大学名誉教授)は、
 ・・・華厳経には、人類の知的遺産として誇るべきもの、高度文明を実現した現代社会を生きる私たちが謙虚に学ぶことが望まれるものが、いくつも含まれています。それゆえ華厳経は今日に至るまで、さまざまな思想的・文化的・芸術的成果を生み出し、多くの人を感動させ、あるいは正しく生きる道へと誘ってきました。今後も、本経箱のような意義と役割を持ち続けることを、私は確信しています・・・
と述べています。
 一方、木村博士は、華厳経には二つの弱点がある、と率直に言っています。すなわち、まず第一に、人間性の洞察が不足していること、そして社会性の認識の希薄さだと言います(下記の2)の部分)。つまり、華厳経の精神の格調高さはよくわかるが、実際の人間は所詮凡夫であり、我欲の塊であり、お金に対する欲、社会秩序の不公平さに対する憤りなどで苦しんでいると言うのです。木村博士は華厳経のこの弱点の理由として、
 1)出家者に説いたものであり、一般大衆向けのものではない
 2)華厳経に対する強い信頼が前面に押し出されており、弱い大衆向けのものではない
 3)本経の成立に携わった大乗仏教者が、当時の、唐の即天武后などの支配階級の手厚い保護を受けているためだろう
と述べています。

華厳思想と禅(2)

 華厳思想とは

 前回、「華厳経のエッセンスは唯識思想と、『宇宙の、人間を含むすべてのものは相互に関連し合い、影響を及ぼし合っている』という、『一即多・多即一』『重々無尽』『事事無碍(じじむげ)」の思想だとお話しました。唯識思想については、別のブログでお話しました。後者について木村清孝博士(東京大学名誉教授)の言葉では、
 ・・・具体的な事物や事象に関しても、時間に関しても、個々のものを決して孤立した実体的な存在とは捉えず、あらゆる存在が他のすべて、ないし全体と限りなくかかわりあい、通じあい、はたらきあい、含みあっているとされます。詩的に表現すれば、一滴の雫(しずく)が大宇宙を宿し、一瞬の星のまたたきに永遠の時間が凝縮されている・・・
となります。
 たしかに重要な思想で、あの米国でのリーマンショックが起きると、ただちにわが国の(もちろん世界各国の経済にも)ほとんどの中小の企業に深刻な影響を及ぼしました。筆者の学生時代、ケネデイ大統領暗殺事件が起きましたが、通っていた英会話塾が休講になりました。講師がアメリカ領事館の人だったからです。そして「今更ながら世界はつながっていることがわかったね」と同級生たちと笑いあったことを覚えています。

 あのオリオン座の左上にある赤い星はベテルギウスと呼びます。地球から642光年も離れている、まさに彼方の星ですが。じつは天文学者たちは重大な関心を持っています。と言いますのは、いつ超新星爆発を起こしてもおかしくないからです。いや、すでに起こしているかもしれません。まだそのようすを示す光が届いてないまも知れないからです。天文学者の関心は超新星爆発を間近に見られるだけではないのです。超新星爆発の衝撃波自体の影響は考えられません。あまりにも遠いからです。しかし、同時に起こるガンマ線バーストが地球に向けて放射されれば、生物は全滅するかもしれないからです。ガンマ線バースト放射は、ベテルギウスの回転軸の周り数度が危険と言われています。天文学者たちの懸命な観測と計算により、幸いにも地球はその範囲の外にあることがわかりました。ことほどさように、はるかかなたの天空の現象であっても、私たちに重大な影響を持つ可能性があるのです。

また、古典文学や名画、クラシック音楽の名曲、そして日本の仏像や名建築の美しさは、数百年の時を超えて現代の私たちの心に響きます。作者たちの心が直接私たちの心に訴えかけているのですね。私たち人間は時間や場所を飛び越えて結びついているのです。

 これらの例を通して、私たちは「宇宙の、人間を含むすべてのものは相互に関連し合い、影響を及ぼし合っている」という華厳思想がよくわかります。

 ただ、木村博士が言う(筆者簡約)、
 ・・・すべての事物・事象の統一性と相互関連性を説く華厳経の教えは、現代物理学や哲学に大きな啓示となっている(たとえばフリチョフ・カプラの「タオ自然学」)・・・
とのコメントには、かなり我田引水的なところがあると筆者は考えます。

華厳思想と禅(3)

 華厳思想の問題点

 東京大学名誉教授で、40年にわたって華厳経を研究してきた木村清孝博士(1940-)は、華厳経には二つの弱点がある、と率直に言っています。すなわち、まず第一に、人間性の洞察が不足していること、そして社会性の認識の希薄さだ言っています。
 じつは、もっと重大な問題があると筆者は考えています。それは、前回お話したように、華厳経の思想は、釈迦以来の大乗経の基本思想の一つである「縁起思想」、龍樹の「空」の理論、そして「唯識思想」がまとめられたものとみなされてもやむを得ないからです。このように、華厳思想も唯識思想も、それまでの仏教を継承し、拡大して(江戸時代の学者富永仲基の言葉でいえば「加上」されて)成立したものにすぎない、と筆者は考えています。木村博士は、華厳経を一貫して研究対象として来た人です。それゆえ、本経典を賛美するのは当然でしょう。しかし、前記の理由から筆者には、華厳経はそれまでのさまざまな思想をまとめたものにすぎず、特に新しい思想は込められてはいないように思えます。それゆえ筆者は、木村博士が「さとりへの道(NHK出版)」で言っている、
 ・・・人類の知的遺産として誇るべきもの、高度文明を実現した現代社会を生きる私たちが謙虚に学ぶことが望まれるもの・・・
とはとても思えないのです。

 華厳思想はあの東大寺が根本経典としています。しかし、前述のように経典としての独自性に欠け、おそらくそのために、その後華厳宗そのものが衰退していきました。さらに当時、浄土系諸宗の進出が顕著でした(註1)。華厳宗はその流れを阻止するために苦慮していたのです。
 そこで華厳思想にテコ入れをしたのが、鎌倉時代の明恵(1173-1232)です。明恵は華厳宗中興の人としてよく知られていますが、なんと華厳思想に密教思想や禅思想を取り入れ、改革しました(註2)。その系譜が今日にまで続いているのです。

註1 明恵は「華厳経」で高唱される菩提心(悟りと衆生救済を強く願う心)を重視し、もっぱら念仏を唱えることによって救われるとする法然の教説(専修念仏)を激しく非難しています。
註2 明恵は若い時から禅に強い関心を持ち、あの栄西とも親しく接しています。京都高山寺に残る有名な明恵像は、坐禅・瞑想をする姿です。それにしても、密教思想や禅の考え方を大きく取り入れたら華厳思想とは言えなくなります。

 しかし、木村清孝博士とは異なり、現代では衰退してしまっていると筆者には思われます。東大寺は法相宗の法隆寺・薬師寺・興福寺とともに、今では仏法を伝搬する場所でも、衆生済度の場でもなくなっており、周知のように観光スポットとして有名ですね。

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