菜根譚と唯識思想

菜根譚と唯識思想

 先日、NHK「こころの時代」で、興福寺貫主多川俊映師が「唯識で読む菜根譚」と題するお話をされていました。菜根譚は、中国明時代の洪応明(1781‐1836)の作で、儒教・道教・仏教などを参考にした人生訓です。

論語の教えは、たとえば「衛霊公篇」には、

 ・・・子曰く 君子もとより窮(きゅう)す 小人窮すればここに濫(みだ)る・・・

(孔子と弟子たちが国を追われて放浪中、餓死の危険さえあった時、弟子の子路が「君子でもどうしようもなく困ることがありますか」と、少し皮肉の意味も込めて言った言葉に対する、孔子の答えですね。子路は孔子の答えを聞いて躍り上がって喜んだそうです。)

とあります。たしかに素晴らしい言葉ですね。ただ、論語に書いてある教訓の多くは、君子のためのもので、実践するのはなかなか難しいです。それに対し菜根譚は大衆のためのもので、すぐにでも実行できるものが多いのです。多川師の紹介する菜根譚の一節、

 ・・・人の小過を責めず、人の陰私(人には知られたくない陰の部分)を発(あば)かず、人の旧悪を念(おも)わず、三者以て徳を養うべく、また以て害に遠ざかるべし(人から悪く思われない)・・・

別の項目には(以下は和訳で)、

 ・・・他人の悪いところを責める場合は、あまり厳しくしすぎてはいけない
相手が受けとめられる範囲を考えて責める必要がある・・・

 ・・・一所懸命にがんばるのは美徳であるが、度を越すと人間らしさが失われて
楽しめない。さっぱりとして無欲なのは立派であるが、枯れすぎては生きている意味がない・・・

 ・・・友人と交わる際には義侠心が大事な要素だ。人間らしくあるには赤子のような純真さが大切だ

どれも、誰にとっても身につまされる内容ですね。このように菜根譚はさりげない言葉ですが「ハッ」と胸を突くものが多いのです。

 多川師は、「どんな読み方をしてもいい。浄土真宗なら浄土真宗の立場から、法華宗なら法華宗の視点で、というように。ただ、何かをベースにしなければ本当に読んだことにはならない。」と言っています。多川師自身は「唯識をベースにしている」と。アナウンサーの「菜根譚と唯識には矛盾するところはありませんか」との問いに対し、「まったくありません」。多川師は、

 ・・・唯識思想は、文字通り「ただ意識だけがある」、すなわち「一人一世界」、つまり、同じモノを見ても人によって見方が待ったく異なるものだ。そのことをはっきり認識しないと誤解が生じる。人びとがお互いに理解し合うためには、唯識思想が有効だから・・・

と言っています。しかし、以前お話したように(註1)、唯識には思想として構造的な欠陥があります。それをベースにするのはいかがなものでしょう。興福寺はずっと唯識思想を尊重してきました。しかしそれが足枷になって、外に踏み出すことができないのではないでしょうか。その事情は他の宗派とて同じでしょう。筆者が仏教の宗派に一切とらわれずに東洋思想を学んでいるのは、この弊に陥りたくないからです。菜根譚には、

 ・・・人の寝静まった夜更けに、独り座禅を組んで自分の心をみれば妄想が消えて
真実の物事が現れてくる・・・

などもあり、むしろ禅をベースにしていると言ってもいいのです。いや、菜根譚を読むのには、いかなるベースも必要ないのです。

註1 筆者の以前のブログ「唯識思想」をお読みください。

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