仏性‐仏教の混乱(1)
「狗子仏性」「即心是仏」「非心非仏」など、禅の公案には「仏(性)」に関するものがたくさん出てきます。さらに仏教全体を通しても「一切衆生悉有仏性」という重要な言葉があります。道元は「正法眼蔵 仏性巻」で、「これこそ釈尊の教えの根本であり、代々の祖師が悟り、伝えて来たものである」と言っています。
しかし、肝心の「仏(性)」とはなんですか、と言われてもよくわからないところがあります。試しにネットで調べてみますと、
例1)仏の性質・本性
例2)悟りの境地
例3)人間だけが持つ覚者(仏=ブッダ)になれる可能性
わが国の仏教研究の碩学中村元博士は、
「仏性の意味を平たく言えば“いのち”といってよい。だれにもこの“いのち”がそなわっていて、それゆえに、みな平等であるというのがこの経典(涅槃経)の中心思想である」(「仏教のことば 生きる智慧」中村 元編著)
考えるまでもなく、1)と3)はまったくちがいます。第一、1)でさえ、「仏とはなにか」の答えにはなっていません。一方、3)では「仏」とは釈迦のことなのですね。「神」ではないのです。阿弥陀様も観音様も「仏」、先祖の霊も「仏」なのです。キリスト教では神は唯一絶対の存在、キリストはキリストと厳密に区別されているのとなんと大きな違いでしょう。これが仏教の混乱の元だと筆者は考えています。その理由は後ほど示します。
ちなみに「一切衆生悉有仏性」は、「大般涅槃経」にある言葉ですが、その意味はこれまでほとんど、
・・・いかなる凡夫であっても、そのままで仏性、すなわち悟りの萌芽を持っている・・・
と解釈されています。つまり3)の解釈ですね。「一切衆生悉有仏性」についても宗派によって解釈の違いがあり、「衆生の中にはブッダ(覚者)になれない者もあるという説 (法相宗) 、人間に限らず、山川草木や生類すべてに仏性があるとする説(天台宗)、それらの精神性をもたないものは仏性がないとする説(華厳宗)など、じつにさまざまですます。仏教の中心課題の解釈がこのようにバラバラではどうしようもありません。現在でもそうなのです。
いかなる宗教でも「神」がバックグラウンドにあるのは論理的必然です。しかし、おかしなことに、仏教では神とか絶対者とか宇宙意識というような概念が出てこないのです。いや、隠されているのです。その理由はおそらく、釈迦仏教が、それ以前のインド思想であるウパニシャッド哲学のアンチテーゼ(対立命題)として出て来たものだからでしょう。ウパニシャッド哲学では、梵(ブラーフマン)という絶対者(神)との合一を理想としているからです(梵我一如思想)。これが仏教では絶対者の存在が曖昧な理由なのでしょう。
浄土系思想は、仏教史の中でも革新的な思想です。以前お話したように、釈迦以来の仏教が自力本願を旨としているのに対し、浄土系思想では、なんと他力本願を本旨としているからです。筆者は、浄土思想を確立した法然こそ、仏教史上龍樹(ナーガルジュナ)を超える大天才だと考えています。しかし、唯一、浄土系思想で絶対者のようなものが出てきますが、それは阿弥陀如来であり、まだ絶対者とは言えない存在、つまり如来の一つなのです。
この仏教における混乱を初めて打開したのがしたのが、あの道元なのです。
仏性‐仏教の混乱(2)
くりかえしますが、あらゆる宗教が絶対者をバックグラウンドにしているのは論理的必然です。それなのに仏教ではそこがきわめて曖昧なのです。筆者が仏教を学んでいますと、いつも何か引っ掛かるものがありましたが、いま、その原因の一つはこの曖昧さにあるように思いました。もちろん禅でも事情は同じです。禅を学んでいますと必ず神とか宇宙意識のような絶対者の存在が背景にあることがわかります。なのにいつもそれが漠然としているのです。そこを打破したのが、あの道元なのです。
道元は、たとえば「一切衆生悉有仏性」の意味としての、
・・・いかなる凡夫であっても、そのままで仏性、すなわち悟りの萌芽を持っている・・・
という一般的解釈について強い疑問を感じていました。わが国の高僧に尋ねても納得ゆく答が得られず。そのために中国へ渡ったという話もあります。そして道元が把握した「仏性」の意味はこれらとはまったく違いました。たとえば、「正法眼蔵 第三巻仏性」の冒頭には、
・・・釈迦牟尼仏言 一切衆生 悉有仏性 如来常住 無有変易(むうへんやく)。これわれらが大師釈尊の獅子吼の転法輪なり・・・
とあります。大乗経典の「大般涅槃経」の一句をそのまま引用しているのですが、道元は「一切衆生、悉有仏性」を「一切の衆生、つまり自然界におけるすべてのものは仏性である」と解釈しているのです。それは、これに続く言葉・・・すなわち悉有は仏性なり・・・から明らかです。「衆生は悉く仏性(ブッダになれる可能性)を持っている」という意味ではないのです。「悉有は仏性なり」、つまり、すべてのものは仏の顕現であるという意味なのです。次の道元の道歌もまさにそれを示しています。
峰の色 渓の響きも みなながら 釈迦牟尼の声と姿と
明らかに釈迦牟尼仏=仏(ほとけ)=宇宙原理=神と考えていますね。さらに道元は、
・・・ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて(仏の家に投げ入れて)、仏のかた(方)よりおこ(行)なはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる(「正法眼蔵 生死巻」)・・・
の一節も、明らかに仏=宇宙原理=神を示しています。つまり、道元こそ、釈迦仏教を乗り越えた人なのです。禅が仏=宇宙原理=神を根本原理としていることは、さまざまな公案や書物を読めばおのずと明らかです。
即心是仏‐「正法眼蔵」(3)
道元が仏(神)の存在を認めていた理由
この「正法眼蔵・即心是仏」で道元は、
いはゆる正伝しきたれる心といふは、一心一切法、一切法一心なり。
つまり、「いわゆる仏祖が正しく伝えて来た心とは、すべての存在のことであり、すべての存在は心の姿である」と言うのです。
古徳云く、「作麽生(ソモサン)か是れ妙浄明心山河大地(センガ ダイチ)、日月星辰(ニチガツ ショウシン)」・・・心とは山河大地なり、日月星辰なり。
また昔の高僧達も、「清浄にして明らかな心とはどういうものか、それは山河大地であり、太陽や月や星である・・・心とは山河大地であり、太陽や月や星である」
と言っているのです。
つまり道元は、悟りに達した者のみの心が認識する山や川、日月や星こそ真の実在である(だから発心し、修行し、菩提、涅槃に入るように努めなさい)と言っているのです。悟りに達した者の眼で見た自然とは、仏(神)の目で見た自然だというのが論理的必然です。道元自身がそうと自覚していたかどうかはわかりません。しかし、
ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる(「正法眼蔵・生死巻」)
の仏とは、まさに神仏の「仏」ではないですか。
筆者は、人間には本来仏(神)性があり、ふだんは潜在意識の中に眠っている。それが修行や禅の学ぶことによって顕在意識、そして神仏と通じるようになると考えています。それが悟りなのです。しかし、なにも禅の修行だけが、神の心に通じるための必須要件なのではありません。すぐれた芸術家や科学者は、常人以上の努力と集中力によって偉大な成果を挙げています。漱石は禅を学んだそうですが、芥川や谷崎についてはそういった話は聞きません。「モーツアルトの音楽には神の心が感ぜられる」と言う意味のことを小澤征爾さんが言っています。天才とは「生まれながらに神の心に通じている人」ではないかと思います。しかし天才でなくても神の心に通じることはできるのです。それは懸命な努力によって成し遂げられるのだと思います。イチローがどれだけ努力と工夫を知っているかをご存知の人は多いでしょう。
話を元に戻します。道元は禅思想のバックグラウンドが仏(神)であると認識していたはずです。それは道元の書いたものや言った言葉から明らかです。本人がそれをどこまで認識していたかどうかはわかりませんが。