脳科学と仏教‐浅野孝雄さんの考え(1)
NHK「こころの時代」心はいかにして生まれるか‐脳科学と仏教の共鳴」より
浅野孝雄さん(1943-、埼玉医科大学名誉教授)は、脳外科医師。幼少時から熱心な浄土真宗信者であるお母さんの信仰を目の当たりにし、お経を読まされ、講話も聴いた。内容には疑問を持ちながらも影響を受けて来た。専門の脳外科医として活躍するうちに、どうしても患者に意識とか心について話さなければならなくなった。そして自然に脳の働きと仏教思想との関連に興味を持つようになったと言います。そこで上記の自分の原風景をベースにして、まず自分の心を理解しようと、改めて仏教を勉強した。そして、浅野さんは「古代インド仏教と現代脳科学における心の発見」(産業図書)を著わしました。
番組によると、浅野さんは、仏教の代表的思想である五蘊の考えと、脳のさまざまな働きには大きな共通性があることに気付いたと言います。
すなわちブッダの考え、
・・・人間存在は炎のようなものだ・・・修行僧よすべては燃えている。貪欲の火によって。嫌悪の火によって。迷いの火によって燃えている誕生・老衰・憂い・悲しみ・苦痛悩み・悶えによって燃えているのだ・・・(「燃える火の教え」中村元訳 註1)
を引用しつつ、五蘊を脳の各領域のそれぞれの働きと次のように関連付けています。まず、
・・・五蘊とは炎のような人間の心を構成する五つの要素。これらが互いに影響を及ぼしながら一つの大きな炎を作り上げる。それが心だ・・・
と述べています。すなわち、浅野さんの五蘊の解釈は、
色(ふつう、人間の体や木や草など、形のあるものすべてを表しますが、浅野さんは、モノが外界にあるのではなく、人間が形成
し、知覚するもの。すなわち、意識に上って来る知覚の働きと解釈。つまり唯識的な考え:筆者)=脳の知覚領(以下同じ)
受(美味しいものは美味しい、不味いものはマズイ、痛いものは痛いという知覚が生じるに従って出てくる怨憎会苦や喜怒哀楽の感情。それに伴って生じる情動)=視床下部と脳幹
想(理性的、知性的働き。出来上がったイメージを組み合わせて一つのまとまった形にする)=頭頂葉
行(こうしたい、ああしたいと、自分の中で起こって来る欲望・衝動的欲求。無意識の中から上って来る人間のすべての感情・行動)→煩悩に結びつく=運動領
識(分別・思考・判断など、人間が論理的に施行する能力)=前頭葉
と解釈しています。そして、
・・・これらによって人間の高次脳機能を網羅。それらは大脳皮質の(上記の)それぞれの部分に分かれて存在。これらの精神活動が、それぞれ燃えている。これら五つの脳の領域が相互に刺激を与えあって心を生じる。これらのものが統合されなければ意識にはならない。これら五つの火が燃えて大きな炎になる。「それが心だ」とブッダは言った。火のように動的なもの。そのイメージそのものが自然のエネルギー、生命力であり、しかも動的に変化する形。ブッダが自然現象の炎にたとえたところに彼の天才性がある・・・
と言います。
そして、浅野さんは、「これらの脳領域の働きが理性と情動を作る。そして両者のバランスを取ることが正しく生きること」と結論付けています。
しかし、筆者にはこれらの浅野博士の考えには疑問があります(次回に続きます)。
註1 「ブッダ伝」中村元 (角川ソフィア文庫)(「スッタニパータ」「サンユッタ・ニカーヤ」「ダンマパダ」「テーラガーター」「テーリーガーター」「マハーパリニッバーナ・スッタンタ」などの原始仏典から重要なエピソードをブッダの生涯の歩みに合わせて年代順に紹介する構成になっています)。たとえば、
・・・ガヤー山(伽耶山。象頭山)で修行を続ける弟子たちにブッダは「燃火の教え」を説いたと伝えられています。「比丘たちよ! われわれの心の中はすべてが燃えている。色が燃えている。眼が燃えている。耳が燃えている。音が燃えている。鼻が燃えている。舌が燃えている。味が燃えている。身体が燃えている。接触するものが燃えている。思考が燃えている。何によって燃えているのか。貪欲・瞋恚・愚痴の三毒、煩悩によって燃えているのだ。誤った三毒を除くならば、苦悩の原因は除かれる。正しい認識と正しい行動をすることによって、一切の束縛を解脱し、涅槃の境地に達することができる・・・
脳科学と仏教ー浅野孝雄さんの考え(2)
前回、浅野孝雄さんの、「仏教の五蘊の思想を大脳のさまざまな部分の働きに対比させる」という考えには疑問があるとお話しました。以下筆者の考えについてお話します。
筆者の解釈では、
色蘊 – 人間の体(眼や耳、皮膚などの感覚器官)と、認識する対象、すなわちモノ
受蘊 - 見る、聞く、嗅ぐ、味わう、皮膚などで感覚したものをイメージとして形成する働き
想蘊 - 「あれは〇〇だ」と分析し、識別する働き
行蘊 - 「〇〇を取りたい」などの情動
識蘊 – 「きれいな〇〇だ」などの価値判断する働き
となります(註2)。たとえば上記の〇〇がバラだとしますと、バラは色蘊、それを写した目の網膜上の画像が受蘊。「これはバラだ」と分析するのが想蘊。「きれいだ」と判断するのが識蘊。「取りたい」と思うのが行蘊です。
つまり、受蘊で感覚したモノを想蘊が同定し、その内容を識蘊が識別。行蘊が「あれを取りたい」と思う。すなわち、筆者は「五蘊」とは、人間の認識作用だ(見て聞いて・・・判断し、行動する)と解釈しているのです。つまり、五蘊のそれぞれが縦につながってモノゴトを認識し、それに基づいて行動する仕組みを言っているのです。浅野さんの解釈とは違うことがおわかりいただけるでしょう。
筆者の解釈を別の譬えで説明しますと、
ここに人工知能(AI)を持ったロボットが階段を下りるという場面を想像してください。まず、ロボットにあるカメラ(人間の眼ですね)のセンサーが状況をとらえます(テレビ画面とお考え下さい。人間の網膜です)。これが五蘊のうちの受蘊です。しかし、それが階段であるか、平地であるかはわかりません。「なにかあるモノ」が写っているだけです。それが階段であることを識別するにはAIが持っている記憶の中から同じようなものがないかを識別して、「階段だ」と分析します。それが想蘊です。つぎに、ロボットのAIは、「このまま進むと危ない」と判断します。識蘊ですね。そして「注意して降りよう」とします。これが行蘊です。
これに対し浅野孝雄さんは前述のように、「五蘊とは人間の脳の働きを構成する五つの要素であり、それらが相互に影響をおよぼしあって心を形成す」ると解釈しています。つまり、浅野さんの考えでは、「五蘊はそれぞれ対等な精神活動であり、それの相互作用によって心が形成される」と言うのでしょう。
個々の五蘊について、浅野さんの考えと筆者の考えとをくわしく比較しますと、
1)受蘊について:浅野さんは、眼や耳、鼻、舌、皮膚などの感覚器官によるイメージの形成(筆者の言う受蘊)と、脳による「これは〇〇である」という分析(筆者の言う想蘊)、そして「きれいだ、きたない」などの感想とか好み、つまり判断(筆者の言う識蘊)を受蘊に混ぜて入れています。
2)想蘊について:浅野さんは「理性的、知性的働き」と解釈していますが、それは浅野さんの識蘊の解釈、すなわち、「分別・思考・判断など、人間が論理的に施行する能力」と同じです。つまり、両者をごっちゃにしています。
以上が、浅野さんの思想と筆者の考えとの違いの第一点です。
註2 五蘊について、浅野さんの理解とは異なる他の人の解釈もあります。たとえば、増谷文夫「阿含経典(1)」(ちくま学芸文庫)では、
・・・人間を分析して、肉体的要素と精神的要素に分け、精神的要素を四つに分った。ここに「色」というのは、その肉体的要素を指す言葉である。そして、その精神的要素については、さらにそれを分析してそれを四つの要素に分った。「受」というのは感官のいとなみ、すなわち、受動的感覚である。「想」というのは表象作用、つまり、感覚によってイメージを造成するいとなみである。また、「行」というのは、その表象にたいして、快もしくは不快を感じ、追求もしくは拒否の能動的意志の作用にうごく段階である。そして、最後に「識」とは意識、すなわち理性のいとなみがはたらく段階である・・・
とあります・・・
ちょっとわかりにくいところもありますが、「色」は別として、あとは筆者の解釈とほぼ同じように思われます。
脳科学と仏教‐浅野孝雄さんの考え(3)
ここで、脳の部位と機能について、他の脳科学者の意見では、
前頭葉(浅野さんの言う識の部位):現在の行動によって生じる未来における結果の認知や、より良い行動の選択、許容され難い社会的応答の無効化と抑圧、物事の類似点や相違点の判断に関する能力と関係している。
頭頂葉(浅野さんの言う想の部位):外界の認識に関わる部分
脳幹(浅野さんの言う受の部位):大脳からでるすべての命令や、大脳に向かうすべての情報が通るところ
感覚領(浅野さんの言う色の部位):大脳皮質に存在し,感覚に関与している部分。皮膚感覚や深部感覚などの体性感覚野は大脳の中心後回に,聴覚野は側頭葉に,視覚野は後頭葉に,そして嗅覚野はその付近に,味覚野は体性感覚野と嗅覚野の中間にある。(つまり、浅野さんの言う脳の知覚領には聴覚野はなく、側頭葉にあるとこの人は言うのです:筆者)
運動領(浅野さんの言う行の部位):骨格を支配する脳幹と脊髄の運動神経細胞に神経信号送って運動を起させる
ことほどさように、同じ脳科学者でも、脳の部位と働きについての解釈はかなり異なるのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
浅野さんの思想に対する筆者の疑問の第二点は、浅野さんは五蘊という脳の各部位の神経活動を、ブッダの言葉である「炎のたとえ」に対比しているところです。すなわち浅野さんは、「心とは、五蘊それぞれが炎となって燃え、それらがダイナミックに変化して綜合されたものだ」と言うのです。しかしその対比はまちがっていると思います。なぜなら、ブッダは
・・・人間のさまざまな欲望は炎のように燃えている。それを鎮めることが心の平安である・・・
と言っているだけなのです。前回お話したように、浅野さんは結論として、「脳の機能を情動と理性に分けて、それらのバランスを取ることが大切だ」と言っています。しかし、炎となって燃えるのは情動であって、理性はクールなものです。けっして「燃えるもの」ではないはずです。つまり浅野さんは五蘊を脳の各部位の神経活動と結びつけた自分の考えを、都合よくブッダの「炎の思想」に結びつけただけだと思います。
浅野さんの思想に対する筆者の疑問の第三点目は、浅野さんの言う「情動と理性のバランスの大切さ」についてです。これは、今を問わず、良識ある人間なら当然承知して身を処しているのであり、ブッダに言われるまでもないことですね。つまり宗教思想とは言えない、常識です。これに対し、五蘊を正しく解釈すれば、五蘊皆空という重要な仏教思想に結び付くのです。
筆者は、浅野さんの言う「大脳の各部分の働きがダイナミックに変化して心を作る」という考えに疑問を呈しているのではありません。浅野の五蘊の解釈自体に問題があるのに、それらを心と結び付けていることに疑問を呈しているのです。