生命は神が造られた(1)‐筆者の信仰の原点
「生命の起源は何か」は、ギリシャの時代からの人間の永遠の疑問ですね。現在、唯物史観の立場から、次のようなさまざまな説があります。
オパーリンの化学進化説:
最初の生命発生以前に有機物が蓄積していたはずです。「原始地球の環境で無機物から有機物が合成され、有機物同士の反応によって生命が誕生した」とする仮説です。化学進化説と言います。
生命の素材隕石由来説:
宇宙から飛来する隕石の中には多くの有機物が含まれており、アミノ酸など生命を構成するものも見られると言います。さらに彗星中のチリにもアミノ酸が存在することも確認されています。これは地球上で汚染されたものであるという可能性が捨てきれませんでしたたが、NASAなどの研究チームが南極で採取した隕石を調べたところDNAの塩基であるアデニンとグアニン、ヒポキサンチンとキサンチンが見つかったため、この説を裏付けることとなりました。
パンスペルミア仮説:
「宇宙空間には生命の種が広がっている」「地球上の最初の生命は宇宙からやってきた」とする仮説です。あのDNA二重螺旋で有名なクリックなども支持していました。
地球を水惑星とも呼ぶその水も隕石が持ってきたことは確実なようです。
筆者は、生命科学の研究者として過ごして来ました。現代の自然科学はもちろん唯物思想に立っていますから、筆者もそういう立場で研究してきましたし、上記の生命の起源のさまざまな説について知っていました。オパーリンの「生命の起源」など、懐かしく思い出します。
今でも宇宙物理学が好きで、関連のテレビ番組は欠かさずに見ています。それによりますと、私たち人類は上記のように「偶然の積み重ねで生まれた」とされています。しかし、筆者はその考えに疑問を持っています。前著でくわしく述べました(註1)が、そんな偶然は、たとえば1兆分の1の、1兆分の1の、また一兆分の1の確率でしか起こらないことなのです。つまり、ほとんど「ありえない」ことなのです。
ごく最近、39光年先に地球型惑星が見つかり、「生命が存在するかもしれない」と話題になっています。しかし、たとえ生命が存在しようと、それはごく原始的な生命でしょう。そんなものなら、地球の奥深く、100℃以上の、酸素のない暗黒の世界にも居ます。人間のような高度の知性を持った生命体とは分けて考えなければなりません。数年前から世界の国々が連携して地球外知的生命体からの電波を探求する研究が行われています。そして、ロシアで早速「これは!」と思われる信号をキャッチしたと大々的に報道されました。しかし、結局それは地球起源の雑音でした。中国では昨年、直径500mもある電波望遠鏡が完成しました。地球外知的生命からの信号を捉えるためです。UFOは昔から私たちの興味の対象でした。「わかった。わかった。しかし地球のどこかに着陸したことがあるのか」。これがフェルミのパラドックスです(註2)。
筆者は15年ほど前、多くの人々の協力を得て、ある酵素たんぱく質の遺伝子構造を突き止めることが出来ました。そのDNA構造を調べている時、突然、「生命は神によって造られた」との思いが湧き出たのです。その時は別に生命の起源などについて考えていたわけではありません。「ある日突然に」でした。その気持ちは今も変わりません。そうとしか思えないのです。生命というものが偶然の積み重ねで起こるとは考えられないのです。生命が地球上で化学進化の結果できようと、隕石によってもたらされようと、問題ではありません。それも含めて神の御業だと思うからです。
人間宇宙論という説があります。「神は自分の偉大さを客観的に知りたいと、それを明らかにするであろう人間という知的生命体を作った」というものです。筆者には神の御心はわかりませんが、宇宙には、われわれ人間以外の知的生命はないだろうと考えています。その思いに基づいて著書の第2作をまとめました(註1)。
註1「続・禅を正しく、わかりやすく」(パレード社)
註2 フェルミのパラドックスとは、物理学者エンリコ・フェルミ(1901-1954、ノーベル物理学賞受賞者。原爆開発にも関わった。しかし、広島・長崎の惨状を知り、責任を感じて自死)の考えで、地球外生命の存在の可能性の高さと、そのような文明との接触の証拠が皆無である事実の間にある矛盾のことです。