「沈黙」‐踏み絵を踏んだのは遠藤周作さんです(1,2)

「沈黙」‐踏み絵を踏んだのは遠藤周作さんです(1)

遠藤周作さんの「沈黙」が再評価されているそうです。来年には映画も公開されるとか。再評価の理由は、欧米で「従来のキリスト教信仰は、教会主導色があまりにも強かった。これからは個人が尊重される信仰に」との思いが大きくなったためと言われる。読んだことのない人のために、簡単にあらすじをお話しますと、

 ・・・島原の乱が終わって間もないころ、ローマへ「日本へ派遣されたフェレイラ神父が、苛烈な弾圧に屈して棄教した」という驚くべき報告がもたらされた。ただちにその弟子ロドリゴらが派遣された。二人は途中のマカオでキチジローに出会い、その案内で五島列島に潜入した。五島では、隠れキリシタンたちに歓迎されるが、やがて長崎奉行所に追われることになる。そして、幕府による弾圧にも屈なかったため、拷問の末処刑された信者たちの様子を目の当たりにした。逃亡し、山中を逃げ回っていたロドリゴは考えた「万一神がなかったならば・・・私は恐ろしい想像をしていた。彼がいなかったなら、殉教したモキチやキチゾウの人生は何と滑稽な劇だったか。多くの海を渡り、三か年の歳月を要してこの国にたどり着いた宣教師たちはなんという滑稽な幻影を見続けたのか。そして今この山中を放浪している自分も・・・」。やがてロドリゴはキチジローの裏切りで密告され、捕らえられる。

 神の栄光に満ちた殉教を期待して牢につながれたロドリゴに夜半、棄教したフェレイラが語りかける・・・その説得を拒絶するロドリゴは、彼を悩ませていた遠くから響く鼾(いびき)のような音を止めてくれと叫ぶ。フェレイラは、その声が鼾なぞではなく、拷問されている信者の声であること、その信者たちはすでに棄教を誓っているのに、ロドリゴが棄教しない限り許されないことを告げる。自分の信仰を守るのか、自らの棄教という犠牲によって、イエスの教えに従い苦しむ人々を救うべきなのか、究極のジレンマを突きつけられたロドリゴは、フェレイラが棄教したのも同じ理由であったことを知るに及んで、ついに「踏み絵」を踏むことを受け入れる。

 ロドリゴはすり減った銅板に近づけた彼の足に痛みを感じた。しかし、そのとき、踏絵の中のイエスが語りかける。
 ・・・踏むがいい。お前の足は今痛いだろう。だがその痛さだけで十分だ。私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのだ。私はお前たちのその痛さと苦しみを分かち合う。私はお前たちに踏まれるためこの世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ・・・。

 そしてロドリゴは踏み絵を踏んだ。ロドリゴは言う。
 ・・・主よ私は今まであなたが沈黙しておられるのを恨んでいました。あなたは沈黙していたのではなかった。あなたが沈黙していたとしても、私のこれまでの人生が、あの人について語っていた。私は今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ。強いものも弱いものも無いのだ。強いものより弱いものが苦しまなかったと誰が断言できよう・・・
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 つまり遠藤さんは、「信仰がどん底まで落ちて、初めて新しい信仰が始まる」と結論付けているのです。
 しかし、筆者は、遠藤さんの考えをとてもそのまま受け止めることはできません。筆者はまったく別の角度からこの小説を読んでいます。それについては次回お話します。

「沈黙」‐踏み絵を踏んだのは遠藤周作さんです(2)

 「沈黙」は発表後一部の教会派から、強い批判を受けました。長崎県などでは禁書扱いだったとか。当然でしょう。あの地方は隠れキリシタンの「聖地」でしたから。筆者の今回のブログシリーズは、NHK「こころの時代」(2017年4月)に沿って話を進めています。しかし、これからお話することは、同じ情報についてですが、まったく異なる筆者の感想をお話します。

 遠藤周作さんは、お母さんの影響で12歳のときに洗礼を受けました。しかし、長い間、「合わない洋服を着ていた。自分の背丈に会うものに仕立て直さなければならない」と考えていたと言っています。そして、それが遠藤文学の大きなテーマだったと、遠藤文学の研究者であり、自身も熱心なクリスチャンである山根道公さん(ノートルダム清心女子大学教授)は言います。遠藤さんは、長崎の26聖人の殉教のその場や、外浦(そとも)の隠れキリシタンの住んでいた島を何度も訪れ、信者たちの話を聞きました。そして「沈黙」としてまとめたのです。山根さんは「『沈黙』のテーマは、遠藤さんが、モキチやキチゾウのような殉教者か、ロドリゴ司祭やキチジロウのような棄教者か、それともそれらを回りで見ていた人間なのかを確かめることだった」と言います。そして、遠藤さんは「私はキチジロウだった。母の私(遠藤さん)に対するキリスト者としての期待を裏切って来たからだ」と答えています。

 しかし、筆者は前述のように、遠藤さんの「沈黙」に込められた告白を素直に受け止めることはできません。結論を先にお話しますと、遠藤さんは、お母さんの期待を裏切って来たからどころではなく、まさに踏み絵を踏んだ人なのです。その理由は次のようです。じつは遠藤さんは、学生時代重症の結核に患かりました。そのとき、あまりの苦しさに「神などあるものか」という、キリスト者が決して口してはいけない言葉を吐いたのです。それを山根道公さんが「遠藤さんから直接聞いた」と証言しています。

 「神などあるものか」の言葉を吐いたことは、踏み絵を踏んだことと同じです。遠藤さんは結核が治ってから、その罪に苦しみ続けていたのではないでしょうか。26聖人の殉教地や、隠れキリシタンの里を訪れ、信者たちの話を聞いた時、客観的な目を通して取材していたのではなく、じつはその間、自分とはあまりにもかけ離れた「本物のキリスト者」すごさにおびえ続けていたのではないでしょうか。筆者は「沈黙」は、自分の罪を合理化(贖罪ではない)するために書かれたと思うのです。ロドリゴ司祭やキチジロウは架空の人物です。ロドリゴが、キリストの「踏むがいい」との言葉を聞いたというのも、フィクションですからいくらでも書けるでしょう。そして、「踏むがいい」と言われたとすることによって、自分の罪を正当化しようとした。つまり、遠藤さんにとって虫の良いフィクションではなかったかと、筆者は思うのです。

 前述のように、遠藤さんは「私は殉教者の立場なのか、棄教した人間か、それとも傍観者なのか」を見極めることが『沈黙』執筆の動機だった」と言っています。しかし、じつは初めから「自分は棄教者である」ことを承知し、その罪におびえ、何とか正当化したいと考えていたのではないでしょうか。遠藤さんは、ユーモアの人としても知られています。しかし、江戸時代の老人の格好をして銀座のバーへ行ったのは、ユーモアを越えているでしょう。その常識外れとも思える行動は、じつは踏み絵を踏んだことの罪悪感の裏返しではなかったかとも思います。そう考えると遠藤さんの行動が筆者の腑に落ちるのですが・・・。
 
 山根さんは「いま、欧米のキリスト教信者によって「沈黙」が高く評価されている」と言っています。「殉教などは教会が示す理想であり、もっと自由な信仰でありたい」という気持ちが、遠藤さんの『沈黙』に眼を向けさせた」と山根さんは言います。しかし、筆者はそうは取りません。欧米や中東の政治家や一般市民の多くは、熱心なキリスト教徒やイスラム教信者のはずです。しかし、その一方で、第一次大戦や第二次大戦、そしてその後の各国での様々な戦争で、大量殺人や虐殺をしているのです。まさに「神とは愛である」とのキリスト教やイスラム教の教理に反する行為でしょう。まともな精神を持った人間なら、それらの行為はまさに、自ら踏み絵を踏んだとわかっているはずです。したがって「もっと自由な信仰を」ではなく、「踏み絵を踏んだことを合理化させてくれる書」と勝手に解釈し、「沈黙」を評価しているのではないでしょうか。はたして、ロドリゴが踏み絵を踏んだことで、命を助けられた人たち(じつは彼らは結局殺され、ロドリゴの棄教は無意味だったのです)は喜んだでしょうか。筆者にはそうは思えないのです。

 最後に、筆者のこの感想は、信仰を持つ者としてのそれではなく、ロジックとしての疑問だということを付け加えさせていただきます。「沈黙」の発表当時、一部の教会派から批判された」のですが、それは教理にそぐわないからではなく、遠藤さんのこのごまかしが赦せなかったのだろうと思うのです。筆者もこの教会派も、遠藤さんには、はっきりと「自分は棄教した人間です」と告白して欲しかったのです。じつは、それだけで赦されるのです。これが神の愛だと思います。

 筆者は、このブログシリーズで、宗教学者の岸本英夫さんや、小説家の瀬戸内寂聴さん、吉村昭・津村節子夫妻の「信仰」について批判してきました。他人の信仰についてとやかく言っているのではありません。もちろん信仰は自由です。ただ、信仰を都合よく自分の信念に合わせたり、小説化することによって、本心を誤魔化したり、すり替えたりしないでほしいのです。

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