法華経と良寛さん(1-4)

法華経と良寛さん(1)

 良寛さんは子供たちと手まりをつき、かくれんぼをしながら遊ぶおだやかな生活振りが知られていますね。しかしじつは、良寛さんは「碧巌録」や「無門関」「従容録」などの禅の語録を完全に読み解いて我がものにし、いつでもそれを漢詩や偈の一節に引用することが出来た人なのです。筆者が「道元以来の人」と言うのはそういう意味なのです。その博識ぶりについては随時お話します。良寛さんがすぐれた和歌も残していることはよく知られていますが、万葉集を白文のまま、つまり、返り点もない状態で理解することが出来たのです。書の達人でもあり、筆者は北大路魯山人が、良寛さんの「いろは・・・」の字を臨書した作品を見たことがあります。あの傲慢と言われた魯山人でさえ、「良寛さま」と言っているのです。良寛さんの学識はまちがいなく当代随一だったでしょう。

 筆者はこのブログシリーズで、有名故人には敬称を付けず、現代の人には「さん」と呼ぶポリシーで紹介しています。ただ、良寛さんだけはどうしても呼び捨てにはできません。

 よく、「良寛は法華経の精神に基づいて衆生済度に努めた」と言う人があります。たとえば、
 
 思想家吉本隆明さん(1924‐2012)にも「良寛」という著書があり、本のキャッチコピーには「農村共同体にたいする僧侶の在り方に新しい地平線を開いた」とあります。また、以前このブログシリーズでご紹介した、北川省一さんは、マルクス・レーニン主義に共感し、農民運動や労働運動の活動家として、活躍しました。しかし、共産党の方針に反対したため除名され、その後次々に起こした事業にも失敗したと言います。そういうどん底の状態にあった時良寛さんに出会い、救われたそうです。その理由は「良寛は、社会の矛盾に怒る人生だったが、最終的にはそれを乗り越え、『世の中の人々を助けよう』と越後に帰り、村の人々や子供たちを分け隔てなく愛する境地になったところだ」と言います。労働運動に挫折した省一さんは、「良寛さんのように民衆の中に入り、彼らと親しく付き合いながら世の中を改革することを運動の原点にすればいいのだ」と、自分と重ね合わせたのでしょう。

 しかし、これらの人たちは良寛さんをまったく誤解していると思います。なるほど良寛さんは「法華経」に傾倒し、当初はその精神の一つである衆生済度を重要な使命と考えていたでしょう。「法華讃」を読めばよくわかります。それなら当然、故郷越後に帰ってから、人々の「済度」をするはずでした。しかし、実際には良寛さんは衆生済度などまったくしなかったと思います。良寛さんはひたすら自由に生きた人だと思うのす。つまり、衆生済度の境地さえ超えてしまった人なのです。「済度」など、禅が最も嫌う「はからい‐意図的な行動」だからです。それでは「自由」とは言えません。良寛さんは、だれに対してもわけ隔てない、自然で自由な付き合いをしたのです。それが自ずと人々の心を慰めたのだと思います。良寛さんは、越後という一地域の人々を「済度」しただけではないのです。伝えられる人となりや言動、残された多くの歌や詩を通じて、200年後の私たちの心を癒し続けているのだと思います。
 
 筆者のこの考えは、前回お話したように、良寛さんと親しく接した、越後の大庄屋解良(けら)栄重の、
 ・・・師更に内外の経文を説き、善を勧むるにもあらず・・・其の話、詩文にわたらず、道義に及ばず、優游(ゆうゆう)として名状(めいじょう)すべきことなし。ただ道徳の人を化(か)するのみ(良寛禅師奇話第四十八段)・・・で示されています。

 良寛さんが、新潟三条大地震(1828死者1500人)で末の子を亡くした友人の酒造家山田杜皐(やまだとこう)に送った手紙:
 ・・・地震は信(まこと)に大変に候。野僧(私)の草庵は何事もなく、親るい中、死人もなく、めで度存候。うちつけに死なば死なずて永らへて、かゝる憂きめを見るがはびしさ(私も突然に死んだらよいのに死なないで生き長らえて、このような辛い目をみることは苦しいことだ)。しかし災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候。かしこ(下線筆者 「良寛全集 下巻」 東郷豊治編著 東京創元社)・・・
は、私たちとって驚くべき内容ですね。東日本大震災で家族を失った人にそんなことを言ったらどうなるでしょう。しかし、良寛さんは「法華経」の真理を完全にわがものとしたからこう言ったのでしょう。

法華経と良寛さん(2)
 良寛さんはひたすら自由に生きた人だとお話しました。良寛さんの別の詩に、

 ・・・行人我を顧(かえり)みて咲(わら)い。何に因(よ)其(そ)れ斯くの如きと。頭を低(た)れて伊(これ)に応えず。道(い)い得ても也(また)何ぞ似ん。箇中の意を知らんと要(もと)むるも 元来祇(ただ)這是(これこれ)のみ・・・(谷川敏明校注「良寛全詩集」春秋社)
(通りすがりの人が私が子供たちと遊んでいるのを見て、「坊主のくせにお経を読まず、一体何をしているのだ」と笑った。私は頭を垂れるのみだった。私の真意を言おうとしても「ただこれが私です」としか答えようがない)

とあります。じつは、祇(ただ)這是(これこれ)のみの言葉には重要な意味があるのです。良寛さんの「法華讃10(註1)」には、
 (お釈迦様が悟りで得られた最高の真理など)

 ・・・是非思慮之所及・・・人有若問端的意 諸法元来祇如是

つまり、考えてもわからないことだ。もし人が一言でそれを言おうとしたら、「ただこのままです」と言う他はない。
とあります。「法華経で言う最高の悟り・阿耨多羅三藐三菩提の内容は、ただ最高の境地に至った人だけがわかる。言葉で言い表すことなどできない」とお話しました。そのとおりでしょうが、なんとかそれを知りたいものですね。そういう意図でこのブログシリーズを続けています。以前お話したように、その一つは、「是非、善悪、有無、貴賤、迷悟などの分別(はからい)を捨て、ただありのままの姿こそ大切だ」だと思います(註2)。道元は、「中国宋の如浄禅師のところで学んで来たものは『眼横鼻直(眼は横、鼻は直)』ということを知っただけだ(「永平元禅師語録」)と言っています。良寛さんの有名な詩に、

     生涯、身を立つるに懶(ものう)く
     騰々、天真に任す
     嚢中、三升の米
     炉辺、一束の薪
     誰か問わん、迷悟の跡
     何ぞ知らん、名利の塵
     夜雨、草庵の裡(うち)
     双脚、等間に伸ばす

(立身だの出世だのに心を労するのがいやで、すべて天のなすままに任せて来た。いま自分には、この頭陀袋の中には乞食でもらって来た米が三升あるだけ、炉辺には一束の薪があるだけ。迷いだの悟りだのということは知らん、まして名声だの利得などは問題ではない。私は夜の雨がしとしとと降る草庵にあって、二本の脚をのびのびと伸ばしている。それだけで満ち足りている。)

これがとりもなおさず良寛さんが「法華経」から学んだところであり、悟境でしょう。

註1「法華讃」の現代語訳は、竹村牧男「良寛『法華讃』評釈」(春秋社)による。

註2 じつは、阿耨多羅三藐三菩提にはもっと深い意味があるのですが、追々お話して行きます。第一、「是非、善悪、有無、貴賤、迷悟などの分別(はからい)を捨て、ただありのままの姿こそ大切」などは、別に「最高の悟りを得ていない」私たちでもよくわかることですから。

法華経と良寛さん(3)

 良寛さんが「法華経」で学んだものには次の二つがあると思います。
 第一は、「法華讃8」にある、
 ・・・人人 箇の護身府有り。一生再活して用うるも何ぞ尽きん・・・
(人間には一つのお守りがある。一生の間に何度使っても、そのはたらきはなくなることはない)
ここで言うお守りとは、仏性、つまり仏としての素質のことでしょう。これは法華経の主題の一つです。
 第二は、前回もお話した、諸法元来祇如是(しょほうがんらいただかくのごとし)です。良寛さんは、「お経も読まずに子供と遊ぶとは」と非難する村人に対し、「私はこのままの私です」と答えたのですが、「祇如是にはもっと深い意味がある」とお話しました。それは、「阿耨多羅三藐三菩提、すなわち最高の悟りは、諸法実相、つまり、人間も山も川も木も草も、すべてそのまま法華、すなわち宇宙の真理の現われである」と言うことです。前回お話した、「法華転63」の

 風定花尚落  風が止んだというのに花が散っている
 鳥啼山更幽  鳥が啼き山色渓水の眺めが一層幽邃となる
 観音妙智力  この風光こそ観音の妙智力であり
 千古空悠々  千古空々悠々たる清浄身である

も同じ趣旨です。さらに「法華讃7」にある、
 ・・・日は毎朝東より出て、月は毎夜西に沈む・・・の詩も同じことを言っています。
 ただ、「目で見、耳で聞く自然の姿に諸法実相、すなわち法華(宇宙の真理)が表れている」と言われても、読者の皆さんは「そんなこと言われても・・・」とおっしゃるでしょう。しかし、そうとしか言いようがないのです。あえて言えば、「大衆の見る自然と、最高の悟りに達した人が観る自然はちがう」のです(見ると観ると使い分けてあることにご注意ください)。道元や良寛さんにはそう観えていたのです。
良寛さんは、「法華讃19」で、
 ・・・若(も)しくは坐禅し、若しくは経行(きんひん 歩きながらの瞑想)す。二十年前枉(ま)げて苦辛す・・・
(そんなものはムダだった。ただ諸法元来祇如是(しょほうがんらいただかくのごとし)さえわかればよかったのだ)

と言い、前述のように、道元は「宋の天童如浄師のところで学んで来たのはただ一つ、「眼は横 鼻は直というあたりまえのことを知ることだった」と言っています。しかし、それらは嘘です。道元も良寛さんも長く厳しい修行をしてきたからこそ、それがわかったはずです。なによりも道元は常々「只管打坐(ただひたすら坐禅せよ)」と言っているではないですか。

註3 ちなみに良寛さんの「法華転」とか道元の「法華転法華」とは、法華すなわち宇宙の真理が自然や人間、およびそれらの出来事などとして表れているという意味です。

法華経と良寛さん(4)
 まとめ

 1)まず、「法華経」は、釈迦が直接説かれた教えではありません。後世の無名のインドの哲学者たちが、釈迦の思想に啓発されて考え出した思想なのです。それを論証したのは江戸時代中期の富永仲基ですから、道元が知らなかったのは当然です(註4)。良寛さんは富永より50年ほど後の人ですが、当時の事情から富永の説を知らなかったのでしょう。それを知れば道元も良寛さんも大ショックだったと思います。

註4 じつはこの「大乗非仏説」は、大乗経典が成立した当初から言われていましたが、無視されてきたのでしょう。

 2)「法華経」には、やはり、「最高の悟りとは何か」は書かれていません。しかし、言わんとすることはよくわかります。覚者が観る「諸法実相」は衆生が見る「諸法実相」とは違うのです。筆者は、「生命は神が造られた。山や川も宇宙も神が造られた」と確信しています。「諸法実相」の正しい観かたは、そういう自然の観かたと言ってもいいと思います。それを正しい観かたで認識できるかどうかです。それが禅の要諦なのですが、それについては改めてお話します。
 3)「人人箇の護身府有り(人間には生まれながら仏性がある)」と言われても・・・と皆さんもお考えでしょう。それならわざわざ修行する必要はないことになりますね。「しかし、それは隠れている。それを顕わすには修行などが必要だ」と筆者は考えます。「など」の意味についてもいずれお話します。
 4)竹村牧男さんは「『法華讃』を読まずして良寛はわからない」と言っています(前掲書)。しかし、筆者にはそうは思えません。良寛さんが「法華経」をどう学んだかは、子供たちとのびのびと遊んですごした日常生活を見れば十分わかるのです。それは、多くの短歌や漢詩から伺い知れるのです。良寛さんは道元よりすごい人です。なぜなら道元は衣食は完全に保証されていたのに対し、良寛さんは「食まで人に乞はなければならなかった(乞食ですね)」のです。それがどんなに大変だったか。筆者は五合庵に立って蒲原地方をはるかに見渡しながら、「雪の深い冬、炎暑の夏に托鉢して歩くのはどれほどか大変だったろう」と想いを馳せたことがあります。
 5)思想家の吉本隆明さんや、良寛研究者の北川省一さんが、「良寛は衆生済度を行った」と言うのは、すでにお話したように誤りです。あまりにも良寛さんを知らなさすぎます。
 6)「法華讃」は102首あります。いずれにも深い意味があり、難解なものも少なくありません。しかし、ご心配はいりません。それらを理解することもも大切ですが、なによりも良寛さんの日常生活を一つひとつ味わえばわかることです。良寛さんは「法華経」や禅の心を誰よりも実践した人なのですから。

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