神の存在と死後の世界(1,2)

神は実在されます(1)

 筆者がこのブログシリーズを書いてきて、「宗教とは」をお話するキーポイントは、神と死後の世界の実在について、筆者がどう受け止めているかをお伝えすることだと感じています。さまざまな悲しみや苦しみの渦中にある人たちにとって、神や死後世界の存在を「受け止められない」とか、「そこがわかれば」と言う人は多いはずです。筆者は、そこが最大のキーポイントだと思っています。
 以前お話したように、筆者は神の実在を確信しています。筆者は生命科学の研究者として生きてきました。その過程で、たくさんの人たちの協力で、あるたんぱく質の遺伝子構造を明らかにすることが出来ました。そのたんぱく質は酵素の一種で、各種のアミノ酸が重合したものです。まずそのたんぱく質を精製し、次いでアミノ酸の配列順序を明らかにしました。それを基にそのアミノ酸配列を決める遺伝子DNAの構造を推定しました。今度はそれを同じ構造を持つDNAを人工合成し、それを鋳型としてたんぱく質を合成しました。そしてそのたんぱく質の機能を調べてみますと、まさしく元の酵素たんぱく質の働きが再現できたのです。その遺伝子の構造を眺めている時、突然「生命は神が造られた」との考えが浮かびました。そのときは別に、神の存在について考えていたのではありません。「ハッ」と、「生命は神によって造られた」と確信したのです。

 生命だけではありません。じつは山も川も、それどころか宇宙も、その元になっている素粒子も、ダークマターもダークエネルギーも神が造られたと思っているのです。宇宙は138億年前のある、ある場所でビッグバンという大爆発が起こって始まったことは、今では疑う人はいません。しかし、よく考えてみますと、そのとき宇宙は無かったのです。なにもないところであることが起こったのです。ここにすでに絶対矛盾がありますね。それからはるかに時が経過して、地球上に私たち知的生命が存在しています。しかし、地球上で知的生命が生まれたのも奇跡としか考えられないのです。人間のような高等生物が生まれたのは水が液体の状態で存在しうる、地球が太陽からの距離の100±1~2%のごく限られた範囲にあったこと、月という衛星がちょうどいい位置にあったことなど、偶然に偶然が重なったからです(註1)。

註1 地球が火星ほどの大きさだったら、大気は宇宙へ拡散してしまいます。ビッグバンから人類の誕生に至る出来事がすべて、奇跡としか思えないハプニングの連鎖によって起こったという筆者の考えの根拠については、いずれくわしくお話します・・・。

 いま、宇宙物理学も急速な進歩を遂げています。しかし、科学がどれほど進歩しようと宇宙や生命が生まれた仕組みがわかるだけで、なぜその仕組みができたのかまでは不可知なのです。たとえば、現在17種の素粒子が知られています(最近18番目の粒子の存在の可能性が出てきました)。しかし、なぜ17種類で、なぜそれらの粒子がそれぞれの性質を持たねばならなかったのかなど、永遠に「説明しかできない」でしょう
 筆者はこのブログシリーズで、これまで、筆者自身が体験したことに限定し、神と死後の世界についてお話してきました。しかし、読者の皆さんには、それでもなかなか納得していただけないのです。そのお気持ちはよくわかります。いえ、筆者はそれらを実体験できたことをほんとうに幸運だったと思っているのです。

 しかし、
読者の皆さんには、自分が体験できないからと言って、「ない」とか「受け止められない」と決めつけないでいただきたいのです。「見えたり感じたりする人もいるのだ」と思って下さい。あのマザーテレサは、インドコルカタのキリスト教系の学院の一教師だったのですが、休暇のため避暑地へ向かう汽車の中で「全てを捨て、最も貧しい人の間で働くようにという啓示を受けた」と語っています。それが「神の愛の宣教者会」の創立につながり、「見捨てられた人々」の救済のための人生を送ったのです。筆者は、テレサと修道女たちによるの神への奉仕の様子を長編のドキュメンタリーテレビを見て、涙が止まりませんでした。
明治以前の人に、テレビや電話というものを説明するのに、いくら「遠くにいる人と話したり、その人の姿が見えたりする」と言っても、理解させることは到底無理でしょう。現代の私たちが存在を確信しているのに。

 神は実在されます(2)

 先日、NHKテレビ「心の時代」で、チヤプレンのお話が出てきました。チヤプレンとは、以前お話しましたように、末期ガン患者のような、もう治る見込みがほとんどなく、ホスピスに入り、死を迎える人たちの心に寄り添うお仕事です。キリスト教に古くからある制度で、仏教系の臨床宗教師と違って国内外で制度として確立し、当然ながら生活も保障されており、ノウハウの伝統もあって安心できます。大阪の淀川キリスト教病院はその一つで、牧師藤井理恵さんは26年に亘って多くの患者に接して来られました。上記のテレビ番組はその体験談です。

 藤井さんが紹介していたある患者は、40代の主婦で、中学・小学生3人の娘たちを残しています。その人は交友関係も広く、病室にはたくさんの花や励ましの色紙が飾られていたそうです。しかし、最後の日が近付いてくると「あんなものは何の支えにもならない」と言い、頬が引きつるようになったとか。死に対する恐怖と、残された子供たちに対する心配からそれらのものも受け付けなくなったのでしょう。藤井さんが招かれて病室を訪れ、いろいろお話するうちに、聖書の言葉、
「死の陰の谷を行くときも、私は禍を恐れない。あなたが私とともにいて下さるから(旧訳聖書詩編23編4節)」とか、
「私を信じるものは死んでも生きる(新訳聖書ヨハネの福音書11章25節)」の言葉を聞いて心が休まり、頬の痙攣もなくなったそうです。
 よいお話ですね。しかし筆者には、これらのお話を聞いて不安もあります。本当にこの患者さんはこれらの言葉を信じたのでしょうか。ここでも神様がいて下さることと、死後の世界があることが大前提になっていますね。幼時からのクリスチャンは別として、「この期に及んで」それらを心から信じることのできる人は少ないのではないでしょうか。以前の別の番組で、「チヤプレンの言葉を聞いて納得できるかどうかは、その患者のそれまでのキリスト教信仰の深さによって大きく異なる」と、チヤプレンとしての経験の長い人が話しておられました。前記の主婦は、敬虔なキリスト者として過してきた人ではないようでした。そういう人が本当に安心立命できたのか気掛かりなのです。

 また、「あなたのお話を受け入れなかった患者さんはいませんでしたか」とのアナウンサーの問いかけに対し、藤井さんは、
 ・・・59歳の男性患者さんで、大きな会社の役員でした。「私は自分の信念に基づいてこれまでの人生を送って来た。死を迎える今もその信念に従って行く」と、逆に私にその信念を熱っぽく語った方がいらっしゃいました。でも亡くなられたあと、遺族の方から「最後はベッドの上で両手を挙げて『沈んで行く、沈んで行く。助けてくれ』と叫んでおられたそうです・・・
少し怖いお話ですね。
 藤井さんは、人生の途中で方向転換し、神学部の大学院まで出て牧師となり、チヤプレンとなったと言います。つまり、けっして生え抜きの信者ではないようなのです。そういう藤井さんが、神や死後世界の存在を実体験を通して確信していらっしゃるのかをお聞きしてみたいのですが・・・。

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