踏み絵を踏んだのは遠藤周作さんです(続)

踏み絵を踏んだのは遠藤周作さんです(続)

 遠藤周作さんの「沈黙」が映画化され、キリスト教関係者の中で大きな話題になっています(筆者は映画は未見ですので、原著と差があるかどうかはわかりません)。筆者は前回、「『沈黙』は『神も仏もあるものか』と、棄教的言葉を吐いた遠藤さんが、その罪におののき、自らを正当化するために書いたフィクションです」とお話しました。ロドリゴ司祭が聖像を踏んだという行為の是非を云々したキリスト教学的論述ではではないことはおわかりいただけたと思います。

 元上智大学教授の教父J.S.O’Learyさんが「福音宣教」7月号(オリエンス宗教研究所)に、次のような寄稿をしています。そしてO’Learyさんは「踏んだ」ロドリゴ司祭の行為を肯定し、「殉教の放棄こそがより高い殉教である」とちょっと筆者にはわかりにくい結論しています。
 「沈黙」の受け取り方は、キリスト者によってさまざまでしょう。中には激しい言葉で相手を非難することもあるようです。「殉教の地」九州の天草地方では「禁書」とされたり、アイルランドのある司教は、映画の上映に抗議したと言います。言うまでもなく、遠藤さんの著作やその映像化作品に対する評価は、信者一人ひとりの「思い」ですから、本来、誰もそれをとやかく言うべきことではないでしょう。ただ、まさに踏み絵を踏まんとするシーンでキリストが、「私がこの世に来たのは人々によって踏まれるためである」がきわめ重要な踏むことの「正当化」の鍵として使われているのには大いに疑問があります。それがキリストの言葉としてはだれも証することが出来ないからです。ここに遠藤さんの「自己弁護のための作為」があると、筆者は考えます。O’Learyさんはさらに、
 ・・・ロドリゴ司祭は、今やユダ(註1)と同じレベルであり・・・キリストに近く、キリストのゆるしの「宝」を運ぶにふさわしい人なのです。キリストのイメージとユダのイメージの重ね合わせは、遠藤の小説における逆説的核心へと私たちを導いています。仏教的パラドックス「山は山に非ず。故に山は山である」はロドリゴの内に反映しています。禅の言葉「仏に逢うては仏を殺せ」は、ここにおいて「キリストに逢うてはキリストを踏め」ということになっているのです(下線筆者)・・・

と言っています。筆者が今回問題にしているのはここなのです。O’Learyさんの専門は「キリスト教と仏教との対話」および、「キリスト教と二十世紀の文学」とあります。しかし、O’Learyさんは上記の仏教思想を正しく理解していないのです。すなわち、まず「山は山に非ず。故に山は山である」は別に逆説ではありません。その正しい意味はすでにこのブログシリーズでお話しました。つぎに、「仏に逢うては仏を殺し」は、「祖に逢うては祖を殺せ」と続く臨済の言葉ですが、「仏(教)とはなにかを追求し尽しても、それにこだわっていはいけない」という意味なのです。O’Learyさんのように「司祭は司祭に非ず、故に司祭である」とか、「キリストに逢うてはキリストを踏め」と結びつけるのはとんでもない間違いだということがお分かりいただけるでしょう。このように仏教の研究者の中には、あちこちで学んだ語句を適当に結びつけて自説のサポートにする人が多いことに注意しなければなりません。

 以上、筆者は、ロドリゴ司祭の「踏み絵行為」についての遠藤さんの著書の内容のキリスト教学的是非についてはなにも言っていません。ただ、遠藤さんのこの創作態度と、O’Learyさんの論説の矛盾についてのみ疑問を呈しているのです。踏むかどうかなど、教条ではなく、自分自身がそういう状況になってみなければ絶対にわからないでしょう。そうでない場合の議論など、単なる空論だと思います。
註1 ユダはご承知のように、キリストを裏切って磔刑へと追いやった人物ですが、キリストがそれを許したことが、かえって後世のキリスト者への大きな福音となっているようです。それゆえO’Learyさんがここでユダの背信とロドリゴの棄教行為とを重ね合わせているのでしょう。

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