鈴木大拙 東洋的な考え方

鈴木大拙「最も東洋的なるもの」(新潮CDより)

 鈴木大拙(1870‐1966)は金沢の人。1897年に渡米して、ドイツ人の依頼で老子の「道徳経」の英訳仕事に従事。その翻訳作業を通じて、西洋と東洋のモノの考え方に違和感を感じることが多かった。

 大拙:たとえば西洋ではモノゴトを対立的に考える。恐らく主体(subject)と客体(object)とを分ける言語のスタイルから来ているのだろう。さらに、たとえば、Dogs have four legs.「犬が足を持つ」という言い方は日本人としては変だ。「犬には足が4本ある」だろう。そういうふうに主語を明示しないことも多い。さらに、言葉一つひとつの定義(概念)がはっきりしていない。たとえば西洋では「春風は暖かい」と「事実」を言うが、東洋では「春風駘蕩」と「感じ」を述べる。(以下筆者の感想:あるいは、それは西洋の国同士の言葉の違いによるのかも知れません。概念をはっきりさせないと意思が通じないからでは?。西洋ではそれらの言語的特徴が哲学にも影響を与えたのでしょう)。

 大拙:さらに、主体と客体をはっきりさせるという西洋の言語のスタイルが、人間と自然をも対立させることになったのではないか。それゆえ、「自然を克服する」とか、「人間の害になる虫や雑草を駆除する」という発想につながったのだろう。そのため自然は破壊され、貴重な生物種の絶滅の原因になった。東洋では「人間は自然と共存する」と考える。自然とは人間と対比させるものではなく、「自(みずか)ら然(しか)る」、つまり、「それ自身でそうなっている」と言う。(道元が「正法眼蔵」で言っている「現成公案」《モノはあるべきようにあり、「体験」によって現れる》という考え方ですね:筆者)。

 大拙:「自由」についても同様だ。西洋では「他からの束縛を離れる」ことを言うが、東洋では「自らに由(よ)る」とまったく別の意味で使う(すなわち、「自分をよりどころにし、他人に頼らない」というのです。素晴らしいですね:筆者)。
 西洋と東洋はますます近づいて来ており、これらの「西洋的なモノゴトの考え方」と「東洋的な考え方」をうまく融合させることが重要になって来る。でないと、対立や疑心暗鬼が深まるばかり。これからは両者のモノゴトの考え方の長所を出し、欠点を補い合うことが大切だ。

 以上が鈴木大拙博士の講演の要旨だと思います。

 じつは、「主体と客体を対立させない」ことこそ禅の要諦なのです。筆者がこのブログシリーズで何度もお話しているように、「空(くう)」のモノゴトの観かたそのものです。「モノがあって私が見る」という唯物的な考え方とは異なり、「モノを見るという体験こそが真実である」と言うのです。そこでは「見る私と見られるモノ」は一体になっているのです。その体験は一瞬であり、まだいかなる価値判断も生じない段階なのです。禅の代表的な公案の一つ、「父母(ぶも)未生(みしょう)以前のこと」とはこういうことなのでしょう。

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