人工知能(AI)は宗教に取って代われるか(1,2)

人工知能(AI)は宗教に取って代われるか(1)

 人工知能(AI)の発達は驚異的で、今では逆に「人間とは何か」を再規定しなければならない状況になっています。先日もNHKテレビでこの問題について、AIの専門家である東京大学の特任准教授松尾豊さん、芥川賞作家の本谷有希子さん、囲碁七冠の井山裕太さん、お笑い芸人の徳井義美さんが話し合っていました。
 最近、世界最強の棋士イ・セドル(井山さん自身も)や将棋名人の佐藤天彦さんが、AIのそれぞれアルファ碁やポナンザに完敗したことが衝撃的でしたね。デイープ・ラーニングという、自ら学習するソフトが開発されたことが大きかったと言います。
 まず、松尾さんが「AIが発達すると人類を滅ぼすかもしれないと心配する人がいるが、そうしないようなプログラミングをすればよい」と言っていました。筆者など「コンセントを抜けばいい」と思っていますから、少しも心配はしていません。
 以前の番組で筆者の印象に残ったのは、中国であるソフト会社の有料の会員になると、仮想のキャラクター(若い男性に対しては若い女性)が割り振られ、さまざまな個人情報をインプットしてゆくと、やがてその男性のこよなき相談相手になるというものです。その仮想現実があたかも実在の人のように思われるようになり、やがて「結婚したい」とも錯覚するというのです。
 筆者がその様子を見て思いましたのは、「将来AIは、宗教に代わって人間を救う手段になるかどうか」です。本人の置かれている状況や、これまでの人生のさまざまな出来事などを、時には人に言えないような本音などまでもインプットしてゆけば、暮夜一人涙する時、心を慰めてくれるのでないかと思ったのです。
 今度の「人間とは何か」の番組は、その恐れ(期待?)を解消してくれました。すなわち、番組でAI同士(人間の姿が画面に映し出される)が勝手に会話をするところが紹介されました。驚くほどスムーズなやりとりでした。しかし、松尾さんは「はたしてこれが会話と言えるかどうか」と言っていたのが印象的でした。たしかに、いくら内容が複雑になっても、「おはよう」と言われたAIが「おはよう」と返すのと、本質的には変わりませんね。つまり、人間同士の会話でも何でもなく、たんなるパソコン上のやり取りに過ぎないのです。
 さらに番組では、赤ちゃんが母親を認識するメカニズムを例に挙げ、その複雑さはとうていAIが追いつけるものではないと言っていました。母親の手の温かさ、温かい息遣い、声の調子・・・など、きわめて多様で複雑な情報から赤ちゃんは「お母さんだ」と認識しているからです。宗教でもまったく同じはずです。昔から宗教を伝えるのは和顔愛語が大切だと言われてきました。よく相手の話を聞き、ときには共感して一緒に涙を流し、相手も気付いていない心の奥底を浮かび上がらせてあげる。そんな血の通った人間同士のやり取りがAIにできるはずがありません。

人工知能(AI)は宗教に取って代われるか(2)

 では芸術的創造性についてはどうでしょう。番組ではレンブラントの1200点にも及ぶ絵画作品の筆致、色調から絵具の厚みまで、2年をかけてAIに学習させ、その結果レンブラントの「新作」を完成させました。しかし筆者が見たところ、その「人物」の眼は死んでいたのです。一方、小説(短編)まで「創作」し、文学賞の予選を通ったと言うのです。しかし、そんなことは文字通り「バーチャル」の世界のことで、人間の創造性とは「似て非なるもの」でしょう。松尾さんが「AIの研究者達が、人間に近づけようとすればするほど人間が遠ざかっていくと口を揃えています」と言っていました。当然だと思います。

 「山椒大夫」「高瀬舟」などの名作で有名な森鴎外が医者であり、陸軍軍医総監だったことはよく知られています。森鴎外の漢文の素養は、夏目漱石が足元にも及べないものだったと言います。また、柿本人麻呂以来の歌人と言われた斎藤茂吉も精神科医であり、長崎医大の教授でもありました。「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」「注文の多い料理店」「どんぐりと山猫」「セロ弾きのゴーシュ」などの作者宮沢賢治は、「100年後にでも読み継がれる数少ない小説の作者」と言われています。賢治は土壌改良の専門家であり、花巻のレコード店が驚くほどたくさんのレコードを東京から取り寄せ、「羅須地人会」でレコード鑑賞会を開き、自らもチェロの演奏をするほどの文化人でした。とうぜん彼らの人間生命に対する深い洞察が、文学の基盤にもなっていたことはまちがいないでしょう。彼らは長い間にわたって蓄えられたさまざまな知識と、それらを抽象化して得た概念群、そしてそれらに裏付けられたすぐれた感性を持っているのです。人間の感性にAIなんかが追いつけるはずがないのです。

 囲碁7冠の井山さんも言っていたように、碁や将棋の棋士たちは過去の棋譜からだけ学んでいるのです。そんなものをAIが学べるのはむしろ当然でしょう。人間は疲れますし年齢による学習能力の低下もあります。一方、AIはほとんど無限に学習できるのです。中学生の棋士藤井君が世間を賑わわせていますね(彼は筆者の出身大学の付属中学生です)。彼は高校進学をやめて将棋に専念すると決心したようですが、筆者は義務教育さえ疎かにしている藤井君には高校へ行って欲しくありません。第一、たとえ天才棋士と騒がれようとも、しょせんAIには勝てません。すでに囲碁や将棋界ではAIとの対戦は止めたと決めたようです。それも当然です。すでに結果は明らかだからです。
 つまり、囲碁や将棋をする能力は人間のごく限られた能力に過ぎないのです。一方、芸術や文学、そして宗教は無限の広がりを持っているのです。AIが追従できるはずがありません。

 その番組の結論としては、「人間とは何かがますますわからなくなってきた」で一致しました。つまり、「AIなどが追いつけるとはとても思えない」と言うのです。

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