東洋的な考え方(5‐1,2)

東洋的な考え方(5ー1)

 いま西欧の人達から東洋的なモノゴトの考え方に大きな関心が寄せられています。ヨーロッパでも激しい競争社会は勝ち組と負け組をはっきりと分け、貧富の格差はますます広がっています。そしてテロによる無差別大量殺人の要因の一つにもなっているのです。競争原理は戦後日本人の考えにも大きな影響を与え、偏差値が良い学校、大会社への将来を決めるなど、あたかも人間の価値を決める尺度にさえなっています。それが子供たちの無気力や引きこもり、さらには校内暴力を引き起こしているのです。「殺したかったから殺した」という、あの異様な犯罪を起こした元女子学生も、おそらくあまりに強かった親の期待に自分を完全に喪失してしまったのでしょう。

 それら西欧人の考えの元になっているのが、「人間と自然とを対極的なものとしてとらえる」という思考法にあるのです。ヨーロッパでは、自然の厳しさもあって、自然とはコントロールするもの、克服するものとの考えが強くありました。それが現代の自然破壊を生んできたのはご承知の通りです。サハラ砂漠のような荒廃そのもののような土地も、2000年前は緑野と森林地帯だったのです。西洋における哲学や自然科学の発達も、「人間と自然とを対極的なものとしてとらえ、対象を分析する」という、唯物思考に基づいています。

 日本は温暖多雨で森林の再生能力も高い国です。そのため、日本人は常に緑の山々や木々に取り巻かれてきました。自然を克服するという発想など昔からなかったのです。神とは山や木などの自然神であることからもよくわかりますね。その日本人が、自然は人間と対立するものでないという東洋思想をごく自然に受け入れたのは当然かもしれません。日本人は、なんとしても、少しでも早く、東洋思想という宝物を持っていることに目覚め、それらを活用して子供も大人も生きいきと学び働ける社会に変えて行かなければなりません。学校の成績などが人間の評価の基準ではなく、一人ひとりが自己を大切にし、個性をいっぱいに伸ばせる社会にするには東洋思想こそが重要なのです(註1)。

 筆者は自然科学の研究者として生きてきましたが、もちろん研究法は西欧の唯物思考に則っています。以下にこの西洋的思考と、筆者が個人的に学び、経験して来た東洋的思考との根本的相違についてお話していきますが、唯物論で生きて来た人間として、かえって禅などの東洋的考え方をお話する資格があるように思えます。

註1 槇原敬之さんの「世界に一つだけの花」は、とてもいい歌だと思います。
 ・・・ぼくら人間はどうしてこうも比べたがる?一人一人ちがうのに、その中で一番になりたがる?そうさぼくらは世界に一つだけの花。一人ひとりちがう種を持つ。その花を咲かせることに一生懸命になればいい・・・

東洋的な考え方(5-2)

 では東洋的な思考とはどんなものでしょうか。東洋では人間と自然を決して対極的なものとは捉えません。常に人間は自然の一部として考えています。たとえば人口の庭の「借景」として後ろの山や木々を借りることはよく行われてきました。このシリーズでお話している禅思想はこの考えの究極的なエッセンスです。すなわち、いつもお話しているように「空」とは一瞬の体験です。そこにあっては観る私もその部分、観られる対象もその部分なのです。「体験の主観的部分と客観的側面」と言ってもいいかもしれません。「モノがあって私が見る」という、西洋の伝統的な見かたとははっきりと違いますね。

 自由という言葉について考えてみましょう。西洋で言う自由とは、「他からの束縛を離れる」という意味ですね。「親や学校の監督から離れる、夫の束縛から解放される」というように、常に「私と相手」という対立的構図から発想されています。ところが東洋思想でいう自由とは、自(みづか)らに由(よ)ることを意味します。つまり、自分の足で立つこと、自立することです。この自由の境地から、自己を確立し、自分の本当の価値を知ることになるのです。

 つぎに自然はどうでしょう。欧米的な考えでは、人間と対置される周りの環境ですね。しかし東洋では自然は「じねん」と呼ばれていました。「じねん」とは「おのずから(自ら)しか(然)る」という意味です。もともと中国の荘子(BC369?-286?)の思想です。

「天地は我れと共に生じて、万物は我れと一たり」(「荘子・斉物論篇」)
「道を以て之を観れば、物に貴賤なし」(「荘子・秋水篇」)

つまり、本来的にそうであること、本来的にそうであるもの。あるがままのありかた。まさに人間と自然を一体化する思想、すなわち外界としての自然界や、人間と対立する自然界という概念ではなかったのです。客観的な対象物としての自然への意識はあいまいで、その意味で人と自然の一体感は強かったのです。たぶん福沢諭吉のような先人たちが、幕末から明治にかけて、西欧文化を理解するために、Natureという英語に自然という漢字を当てて、「しぜん」と読むように翻訳してしまったのです。福沢諭吉が偉大な先覚者であることは言うまでもありませんが、
日本の伝統的考えを十分に理解してたとは思えません。賀茂真淵、本居宣長、熊沢蕃山、平田篤胤、荷田春満などは日本の誇るべき思想家です福沢諭吉は日本の思想には疎かったようです。

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