読者のコメント(6)
読者のお一人(臨済宗系のあるお寺の住職)から次のようなコメントがありました。他の皆さんにも参考になると思いますので、アップします。お考え下さい。
1)「現成公案」の「現成」は、既に成就し現に円成している、という意味です。「公案」とは、公共の案件(公の課題)という意味です。仏教にとっての公の課題は、解脱・涅槃・菩提・成仏・衆生済度です。それらが全て、つまり「仏道」が既に成就し現に円成していることを「現成公案」と言います。
2)『PALI(パーリ語:筆者註)–ENGLISH DICTIONARY』の【Rupa(色シキ:筆者註】には、form, figure, appearance, principle of form, etc. と記されています。「色」は、姿や形や外観の意で、認識や認知の内容だと言えます。認識や認知 の対象としての「姿形や外観が有る物」では無いと思います。
筆者の考え
魚川裕司「仏教思想のゼロポイント」(新潮社)の読後感についてのブログシリーズを続けています。早速コメントがありました。他の読者の皆さんにも参考になると思いますので、ご紹介させていただきます。
ご質問:
〇生老病死する私(衆生世間中の一人)と、念々に生滅している認知内容を繋ぎ合わせて認知している私(五蘊世間の私)との区別も合わせて論究して下さると有り難いのですが、…。
〇他人の心臓や腎臓などの臓器を移植したり、癌細胞を切除したりして生き永らえている「我」も軈(やが)て「死」を迎えます。このような生老病死する衆生世間中の一人としての「我」と、念々に生滅している見聞覚知内容を繋ぎ合わせて認知している「我」との区別を明確にして戴けると有り難いのですが・・・。
筆者のお答え:「念々に生滅している認知内容を繋ぎ合わせて認知している私(五蘊世間の私)」とは、「私たち衆生の身の回りに次々に起こる出来事は、いずれも原因と条件によって起こっては消えていく仮の現象であり、それらを経験する私も仮の私だ(魚川氏は経験我と呼んでいます)」という意味ですね(縁起の法則)。凡夫はそれらを苦(渇愛と怒りと貪欲)と結び付けてしまうから問題なのです。
ブッダやその高弟などの悟った人たちは、それらの経験を「仮の姿である」と見極め、苦につなげなかったのですね。もちろんブッダも年老いて病気になって死にました。そして悟った後もブッダの経験我は、当然、念々に生滅している現象を認知していました。しかし、ブッダは、それらを「あるがままの現象」として受け止め、さらりと流していたのでしょう(註1)。そして、老化も病気も死も、あるがままに受け止めて逝ったのだと思います。魚川さんの論旨はよくわかります。しかし、モノゴトを体験し、感じているのは本当に経験我だけなのか。筆者のこの辺の解釈は少し違います。それについてはこのシリーズの最後にお話します。
註1ブッダは「我という本体(魚川さんの言う実体我、魂)の有無については「無記(沈黙)」を通しましたから、老化や病気や死を自覚したのは、その時々のブッダの経験我というこになりますね。
追記:この方の以前のご質問に、
・・・『PALI(パーリ語:筆者)-ENGLISH DICTIONARY』の[Rūpa(色:筆者)]には form, figure, appearance, principle of form, etc., と記されている。「色」は、姿や形などの意で、認識や認知の内容であって、認識や認知の対象としての「姿形が有る物」では無いと言える・・・
とありました。上で「五蘊」が出てきましたのでついでにお話します。五蘊(色・受・想・行・識)とは、人間の認識作用のことです(以前のブログでお話しました)。あなたのおっしゃるform, figure, appearance, principle of form(つまり外観・見かけ)は受(これらの感覚器官がとらえた姿。たとえば、眼が捉えて網膜に写った姿)です。仏教関係の辞書を引くとき大切なことは、「辞書の編者が仏教をちゃんと理解できているかどうか」です(辞書というものはすべてそうでしょう)。けっして絶対ではありません。筆者は、そういうものもいったんすべてゼロにして仏教を考え直しています。
註2 筆者は、以前のブログで「色には、眼・耳・鼻・舌・皮膚・意の人間の感覚器官(六根)と、その対象(六境、たとえば眼で見る山)も含む」とお話しました。筆者が悪いのではありません。五蘊で言う色と、色即是空で言う色はちがうのです。従来の仏教学ではそこがあいまいなので、そう表現するしかなかったのです。