魚川裕司さん(2)

魚川裕司さん(2)我(われ)の本体はあるか

 以下に魚川氏の同著についてご紹介しますが、そのままでは予備知識がないとわかりにくい言葉や、哲学者特有の言い回しがあると思いますので、筆者が適宜「翻訳の翻訳」をさせていただきます。
 まず魚川氏は、「ブッダの教えの基本は縁起であり、すべてのモノゴトは原因(因)と条件(縁)によって形成された一時的なものであり、実体を有さない。それゆえその原因がなくなれば消滅してしまう。であるのに人間は苦しみを、あたかも実体があるように思うくせがある。このことを腹の底から分かることが肝要である。そしてブッダは、そこから抜け出す方法(註4)を説いた」と言うのです。そのとおりでしょう。
 そして魚川氏は、ブッダの縁起の法則に関連の深い無我や輪廻などの、これまでの仏教界で議論の多い概念について検討しています。

註4 正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定などの八正道を実践すること。

無我

 魚川氏:無我というのは、仏教の基本的教理であると言われている。だが、これは同時に仏教史を通じて常に議論の的になり続け、また現代でも多くの実践者・学習者を混乱させ続けている概念である。いくら無我だと言われても、私たちは事実として一人ひとりが違う肉体を持っているし、認知している世界もそれぞれ異なる。私の目が捉える世界と、あなたの目が捉える捉える世界は当然異なったものになってくるし、それに対して抱く世界も、各人の「内面」にそれぞれの仕方で展開するもので、それらが混じり合うことは基本的にない。そうした意味での「個体性」であれば、どれほど長く修行した僧侶であっても維持されているように思われるから、彼らが「無我」だと主張しても「いやだって『あなた』は存在しているじゃないですかと、やはり言いたくなる・・・もっと問題なことは無我だと言ったはずのブッダが「己こそ己の主人である」「自らを島とし、自らをよりどころとして、他をよりどころとせず(以下略)と遺言している。・・・また仏教では倫理的行為を推奨する以上、当然「行為者」には一定の「自由」が担保されなければならないし、「自業自得」を言う以上、行為の結果を引き受ける主体も必要になる(以下略) ・・・このように「無我」という概念には様々な矛盾が含まれているように思われる・・・(以上p80-81)。

筆者のコメント:つまり、いくら無我だと言っても現実に「私」はあるじゃないかと言っているのです。

 魚川氏:無我と言う時にブッダが否定したのは、「常一主宰」の「実体我」である・・・「実体我」とは、常住であり、単一であり、主としてコントロールする機能を有する(主宰する)もの、ということである・・・(ブッダがそう考えた理由は)すべての現象は縁生(原因と条件によって起こる)と考えたからである・・・ならばブッダは「我」は絶対的な意味で非存在だと主張するかというと、彼自身はそのことについて沈黙を守っている(「無記」ですね:筆者)ということである。

筆者のコメント:「常一主宰実体我」・・・わかりにくい言葉です。哲学者の性癖(と筆者は考えます)が出ていますね。つまり、「人が死んでも消えることのない実体」のことです。ヴェーダ信仰のアートマン(個我、魂のようなもの:筆者)と類似の概念(註5)です。それを否定するところが、筆者の言う「ブッダの思想がヴェーダ思想のアンチテーゼとして出発した」理由です。「仏教においては、世界は常住不滅のものであり、人は死んでも実体的な我が永久に存在し続けるという見解も、世界や自己の断滅(人は死んだら無になる)という見解もともに明確に否定されている」のだと、魚川氏もブッダの考えに同調しています。

註5 ヴェーダの言うアートマンとは少し違うのですが、それについては後でお話します。

 魚川氏は続いて、
・・・ブッダは現象の世界(世間)内の諸要素(人間の世界で起こる出来事:筆者)のどれかが実体我であると考えることについては明確に否定しているが、常一主宰の実体我でない経験我については必ずしも否定していない。では経験我とはなにか。それは縁起の法則に従って生成消滅を繰り返す諸要素の一時的な(仮の)和合によって形成され、そこで感官からの情報が認知されることによって経験が成立する、ある流動し続ける場(認知のまとまり)のことである(p89)。

筆者のコメント:またまた哲学者の性癖が出ていますね。わかりにくい文章です。要するに、人間が生きて行く過程でさまざまな原因(因)と条件(縁)によってさまざまな出来事が起こる。それらが生老病死などの苦や悲しみの基になる。それらは縁起の結果仮に起こったものだから、当然、原因が無くなれば消えていくものだと言うのです。そのとおりですね。しかし、モノゴトが起こるのは事実です。それが起こっている我を経験我と言っているのです。それに対し、常一主宰の実体我は生きている時はもちろん、死んでからも残らないからそういものはない」と言うのです。しかし、前述のように、魚川氏は、

 ・・・ どれほど長く修行した僧侶であっても維持されているように思われるから、彼らが「無我」だと主張しても「いやだって『あなた』は存在しているじゃないですかと、やはり言いたくなる・・・

と言っているのです。つまり、悟りに至った高僧には経験我が無くなるはずだ。もともと常一主宰の実体我は無く、その上経験我まで無くなれば、その人は完全に無我になるはずではないか。それゆえ「なのにあなたは存在するじゃないか」と言いたくなるのでしょう。しかし、これは明らかに魚川氏の誤解です。なぜなら、いくら悟りに達した高僧でも生きている限り経験我が生じては消えているのです。しかし、高僧たちは「それらはやがて消えゆく経験我に過ぎない」と見極め、一喜一憂に進ませないのです。そこが衆生と違うところなのです。それはあの良寛さんの言動を見ればよくわかりますね。魚川氏はそのへんがよくわかっていないのではないでしょうか。

 さらに魚川氏は、
 ・・・ブッダが否定したのは、そうした無常の現象の世界(経験我ですね:筆者)の中のどこかに、固定的・実体的な我が存在していると思い込み、そしてその虚構の中の実体我に執着して、苦の原因を作ることであった。
と言っています。

筆者のコメント:そうではないのです。凡夫は「経験我のどこかに実体我があると思ってそれに執着するから」ではないのです。そもそも経験我と実体我の区別がつかないため、すべての現象は「自分」に降りかかっていると思い、苦しむのです。一方、高僧は両者をはっきりと区別し、経験我はやがて消えて行くと見極めているから苦には陥らないのです。魚川氏は仏陀の思想をよくわかっていないのかもしれません。 しかもはたして、モノゴトを感じて反応しているのは経験我だけでしょうか。筆者はそうは思いません。あとでくわしくお話しますが、とりあえず筆者はいつも「無我だと言う人の頭をポカンとたたいてやればいいと言います。『痛いじゃないか』と言うでしょう。そうしたら「あなたは無我のはずでは?」と言ってやります。そこが後代に発展した禅とは違うところです。禅は肉体が現実にあることをはっきりと肯定しています。それが空即是色なのです。

 魚川氏のの解釈は、さらに輪廻の説明に入って、どうにもならなくなります。

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