読者のコメント(9)

読者のコメント(9)その1)

柳原様 前回の柳原様のコメントに対する筆者の感想には不十分なところがありました。大幅に改変しましたので、もう一度お読みいただければ幸いです。

「読者のもうお一人」は岩村様です。 この2か月半、岩村様からのご要望に応えようと、魚川裕司氏の「仏教思想のゼロポイント」について筆者の感想を続けています。筆者のブログの本旨はあくまで「禅に関するもの」ですから、ご不満の読者もいらっしゃるかもしれませんが、参考になると思いますので、御了解ください。

岩村様のコメント(続き):魚川祐司著「仏教思想のゼロポイント」中、私が注目した箇所を紹介します。コメントを下さると有り難いのですが・・・。
(1)解脱というのは、俗世間がそれに基づいて機能しているところの、愛執が形成する全ての物語からの解放だ。「善と悪」という区分は基本的には物語の世界に属するものであり、そして解脱とは愛執のつくりだすそうした全ての物語から解放されることであるのだから、その境地には通常の意識で私たちが想定するような「善」も「悪」も、存在し得ないということだ。

筆者のコメント: 前半部分についてはその通りですね。つまり、「人生の途上で経験するモノゴトは、何らかの原因があって起こった実体のないものだ。なのにそれを愛執や苦へと結びつけるのはおかしい」ですね。ただ、「善や悪も、悟りの境地の達した人の心には存在しない」には違和感があります。ブッダにとっても殺人はまちがいなく「悪」でしょう。つまり、善悪は別のカテゴリーの問題です。したがって、「解脱した人には善も悪も存在しない」というのは、まちがいだと思います。

(2)仏教に対するよくある誤解の一つとして、「悟り」とは「無我」に目覚めることなのだから、それを達成した人には「私」がなくなって、世界と一つになってしまうのだ、というものがある。だが、実際にはそんなことは起こらない。・・・どれほど長く修行して、一定の境地に達したとされる僧侶であっても、身体が溶けて崩れるわけではないし、彼の視界が他者の視界と混ざるわけではないし、彼の思考と他者の思考に、区別がなくなるわけでもない。
筆者のコメント:魚川氏の単純な勘違いでしょう。身体が溶けて崩れるわけではないし、彼の視界が他者の視界と混ざるわけではない」のは当然ですね。
(3)バラモンたちよ、これらの五種欲が、聖者の律において世界であると言われる。その五つとは何か? 眼によって認知される諸々の色で、好ましく、求められていて、意に適う、可愛の諸形態で、欲を伴い貪りに染まったもの、そして耳によって認知される諸々の声で・・・、そして鼻によって認知される諸々の香りで・・・、そして舌によって認知される諸々の味で・・・、身によって認知される諸々の触覚で、好ましく、求められていて、意に適う、可愛の諸形態で、欲を伴い貪りに染まったもの。バラモンたちよ、実にこれらの五種欲が、聖者の律においては世界であると言われるのである。
筆者のコメント:「聖者の律においては世界である」の「世界」とは、人間が日常的に見聞きするモノゴトのことですね。欲や愛執が生じる世界です。聖者、すなわち悟った人は、それらモノゴトを損得、愛執などの「欲」にまで移行させることはない。それらを単なるモノゴトとしてありのままに受け止めるだけなのでしょう。

(4)六根六境については、相応部の「一切経」で、ゴータマ・ブッダは、「一切」とは何かと問いかけた上で、それは「眼と色、耳と声、鼻と香、舌と味、身と触、意と法」であると述べており、つまりそれら六根六境(による認知)が「全て」であると言っている。・・・五蘊というのも十二処というのも十八界というのも、衆生の認知の内容を分類したものであるという点では同じであって、異なるのはその分け方だということだ。
筆者のコメント:六根とは人間の認識器官(眼、耳・・・と意)、六境とはその対象であるモノゴトです。それらにそれぞれの、(眼識、耳識のような)認識作用を加えて十八というのは、もともとカテゴリーが別のものを一緒にしているのです。おかしいですね。インドの哲学者はこういうことをよくやります(彼らは数字が好きなのです)。したがって、「衆生の認知の内容を分類したものであるという点では同じであって、異なるのはその分け方だ」の文章は論理的に成り立たないのです。

読者のコメント(9)その2)

岩倉様のコメント(続き)
(5)友よ、生まれることもなく、老いることもなく、死ぬこともなく、死没して再生することもないような、そのような世界の終わりが、そこへと移動することによって、知られたり、見られたり、到達されたりすることはないと私は言う。だが、友よ、世界の終わりに到達することなしに、苦を終わらせることは存在しないと私は言う。
 友よ、実に私は、想と意とを伴っている、この一尋ほどの身体においてこそ、世界と、世界の集起と、世界の滅尽と、世界の滅尽へと導く道とを、告げ知らせるものである(「ローヒタッサ経」)。
(6)「世界の終わり」は、移動することではなく、「想と意とを伴っている、この一尋ほどの身体において」実現される必要がある。言い換えれば、「世界」はいま・ここのこの身体において、内在的に超越されなければならない。
(7)「六処相応部」第百五十四経では、もし比丘が、六根を厭離し離貪し滅尽して、執着することなく解脱しているならば、彼は「現法涅槃(いま・この生において達成された涅槃)に達した比丘」と言われるべきである、と説かれている。

筆者のコメント:(5)-(7)はほとんど同じことを言っていますね。つまり、「悟りの世界」というような特別な世界(空間)があるのではなく、「いま、ここ(この身体)にある」という意味だです。これらの経典が言う通りだと思います。

(8)六根六境が「滅尽」した時に存在しなくなったのは、認知そのものというよりも、そこにおいて「ある」とか「ない」とかいった判断を成立させる根底にある、「分別の相」、即ち、拡散・分化・幻想化の作用であるパパンチャ(戲論)であろう。「世界の終わり」で起こることは、認知の消失なのではなくて、「戲論寂滅」であるということだ。(119p)
(9)感覚入力によって生じた認知は、それを「ありのまま」にしておくならば、無常の現象がただ生起しているだけのことで、そこに実体や概念は存在せず、したがって「ある」とか「ない」とかいうカテゴリカルな判断も無効になっていて、だから(それ自体が分別である)六根六境も、その風光においては滅尽している。つまり、そこでは「世界」が立ち上がっていない。これは既に言語表現の困難なところだが、敢えて短く言い表せば、「ただ現象のみ」というのが、「如実」の指し示すところなのである。

筆者のコメント:(8)も(9)も基本的には同じです。「悟りに達した人もモノゴトを見たり聞いたりする。しかし、見聞きしたモノゴトをそのまま受け止めるだけで、分別し、苦しみや悲しみ、愛執などへと導くことはしない」という意味でしょう。たとえば、あの良寛さんが、大地震でわが子を亡くして嘆き悲しむ人に「苦しいときは苦しむがよき候。 悲しきときは悲しむがよき候。死ぬるときには、死ぬるがよき候。これ苦節を避ける妙法にて候・・・」と言ったことと同じです。すごい言葉ですが、その通りだと思います。なお、魚川氏は「これは既に言語表現の困難なところ」と言っていますが、そんなことはありません。それは筆者のこれら一連の解説をお読みいただければお分かりと思います。

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