読者からのコメント(10)

読者のコメント(10)

 再び岩村さんからのコメントに関する筆者の感想:

岩村さんのコメント:禅の空観と龍樹の空観との異同を考察したいと思い、中村元著『龍樹』(講談社学術文庫)を読んでいます。今のところ、この著書は龍樹の空観ではなく、中村元博士の空観が述べてられているように見えます。例えば、「一切法空」とか「諸法空相」の「法」の意味が龍樹と博士とが同一であると断定できる材料が見当たらない故です。「法」という語が指している事が博士と龍樹とが異なるのであれば、考察する意味が無くなります。
 博士は「法は『もの』であるとする解釈が成立するに至ったのであるが、この『もの』というのはけっして経験的な事物ではなくて、自然的存在を可能ならしめている『ありかた』としての『もの』であることに注意せねばならぬ」と述べています。この一節の理解ができないままで読み進めています。
筆者のコメント:中村元博士は碩学という名にふさわしい学者だと思います。いかなる人でも、龍樹の思想について書きながら龍樹の「法」の意味を勝手に解釈してしまえば学者としての資質を問われるでしょう。中村博士は龍樹の「中論」原典はもちろん、クマラージーヴァ訳のピンガラ釈「中論」(漢語)、チャンドラキールテイーやブッダパーリタなどによる註釈書をいずれもサンスクリット語で読み、チベット語による解説書、さらにプラトーンやヘーゲル哲学も参考にしつつ、緻密な比較検証して「龍樹の思想」としているのです。次に本題に戻ります。
 「もの」というのは経験的な事物ではなくて、自然的存在を可能ならしめている「ありかた」としての「もの」、つまり「法」であるは当然です。経験的事物とは、たとえばリンゴのことで、「法」というのはリンゴを成り立させている原理を指します。

岩村さんのコメント:1)中村元著「龍樹」に、「ブッダは無明を断じたから、老死も無くなったはずである。しかるに人間としてのブッダは老い、かつ死んだ。(中略)自然的存在の領域は必然性によって動いているから、覚者たるブッダといえども全然自由にはならない。ブッダも飢渇をまぬがれず、老死をまぬがれなかった。ブッダも風邪をひいたことがある。しかしながら法の領域においては諸法は相関関係において成立しているものであり、その統一関係が縁起とよばれる。その統一関係を体得するならば無明に覆われていた諸事象が全然別のものとして現れる。云々」と記されている。龍樹ではなく、博士の意見です。
「法の領域」を「蘊・処・界」と見なせば、「大智度論」の「三種世間」説と同じだと思うのですが、いかがでしょうか。
筆者のコメント:「ブッダは縁起の認識こそ無明を断じることを悟ったが、たが病み、飢渇もあり亡くなった」は別に矛盾した論説ではありません。前者は心の問題、後者は肉体の問題ですから。「龍樹ではなく、博士の意見です」については上記と同じ感想です。

岩村さんのコメント2)中村元博士の「法の領域」は五蘊・六入であることが確認できました。『龍樹』p85 に「法は自然的存在の「かた」であるから自然的事物と同一視することはできない。そうしてその法の体系として、五種類の法の領域である個体を構成する五つの集まり(五蘊)、認識および行動の成立する領域としての六つの場、(六入)などが考えられていた」と述べています。五蘊の解釈が納得できないので困惑しています。
筆者のコメント:以前のブログ「そもそも五蘊の解釈が間違っているのだ」にも書きましたように、五蘊を人間の構成要素とする解釈はじつに多いのですが、誤りです。五蘊が人間のモノゴトに対する認識作用であることは、内容から言っても明白なのです。中村博士も五蘊を「個体を構成する五つの集まり」としています(p85)。五蘊は重要な仏教用語ですから、その解釈を間違えれば、土台が崩れてしまいます。中村博士の言う「六入(註1)」の方が、むしろ五運の解釈としてふさわしいでしょう。
註1同書(p85)には「認識および行動の成立する領域としての六つの場」とあります。

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