龍樹の「空」と禅の「空」は異なる(3)

龍樹の「空」と禅の「空」は異なる(2)

 前回お話したように、ブッダ以降のインドの哲学者たちは、ブッダの、いわば「生活の知恵」を「縁起」とか、「無常」などの思想へと発酵させました。中村元博士も、「ブッダのことば」(岩波文庫)の中で、

・・・ブッダは仏教思想などというものを作ろうとしたのではない・・・

と言っています。その通りだと思います。

 「空思想」についても同様です。龍樹(ナーガールジュナ、AD150-250頃、つまりブッダの死後600年以上後のインドの哲学者。当時、すでに大乗経典類のあるものは創出されています)が批判したのは、大乗仏教以前の部派の一つ、説一切有部による「法(ダルマ、原理)は厳然として存在する(ですね)」という主張に対するものです。当時、これは重要な問題でした。龍樹は、「『すべてのものは縁によって成り立っているから、縁がなくなればバラバラになる(縁起)。そして、すべてのものは変化する(無常)』がブッダの思想の根本であるから、法ですら固定的ではない」と言ったのです。「人生は無常である」というような卑俗な(?)問題などが論点になるはずがありませんね。
 龍樹のこの考えは、当時の論争に決着を付けたと考えられ、以後大乗仏教は大きく発展しました。そして、「縁起」「無常」「空」は、大乗仏教の根本原理とされてきたのです。しかし、これこそ、筆者が言う仏教の問題点なのです。つまり、龍樹の「空思想」は禅の「空思想」とはまったく別のものなのです。「空」を大部分の現代の禅師(註3)や仏教解説者の言葉で説明すれば「あらゆるものは縁によって生じ、常に変化しているから実体はない(悩みとか苦しみも同様である)」となります。禅を解説するのに、龍樹の「空」思想を持ち出してどうするのでしょう。

 一方、筆者の「空」の解釈では「見る(聞く、嗅ぐ、味わう、触る)一瞬の体験こそがモノゴトの真実の姿である。そこにはモノゴトがあるとか無いとかは問題にされない。(それゆえ悩みとか苦しみなどの判断はない)」となります。

 筆者が禅を学ぼうと初めて手にした本が、近代の有名なM禅師の上記の「空」解釈でした。その結果、「そんな理屈は納得できない」と、禅から離れました。40年後に再び学び始め、5年以上かかって納得できたのが上記の解釈です。

 どちらの考えを了とするかは、もちろん読者一人ひとりの皆さん自身です。

註3 筆者のブログの読者のお一人、岩村宗康さんは、臨済宗のあるお寺の御住職とか。岩村さんは禅と、西田幾多郎の思想との関連性をお気づきになり、それがとてもよかったと思います。そこで次回は、岩村さんが参考にしていらっしゃる西田博士の「善の研究」と禅との関連性についてお話します。

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