龍樹の「空」と禅の「空」は異なる(4)

(3)禅と観念論哲学

 以下は、拙著「禅を正しく、わかりやすく」でお話した内容です。

 西田幾太郎(1870-1945)は、わが国初の本格的な哲学者といわれ、「西田哲学」という、今でも個人名で呼ばれる独自の思想体系を確立しました。西田には「善の研究」(岩波文庫)という、旧制高校生に広く読まれた著書があります。それを端緒とする西田の思想のエッセンスは、

・・・我々が実際に感覚しているもの、それが物自身である。たとえば、色を見、音を聞く刹那、まだこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考えのないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいう。少しも思慮分別を加えない、真に経験そのままをいい、このとき、見る者(主)と見られる物(客)が同一の状態である。そして、この直接(直覚的)経験こそ物や心の認知の基礎である。」という。それを「直接経験」とか「純粋経験」とか「意識現象」と名付けた。それによると、この世の中のあらゆる実在、草木も石も山も、動物も植物も人も、その精神もすべて我々の意識現象、すなわち純粋経験(直接経験)の事実あるのみであり、客観的物質世界というのは単に思惟の要求より出た仮定に過ぎない・・・

というものです。いかがでしょうか。まさに禅の「空思想」ですね。 龍樹の「空」思想とは違います。
 
 西田幾多郎(1870-1945)は金沢の出身。同郷の鈴木大拙(1870-1966)の親友で、お互いに禅を学び、坐禅修行に励みました。両者が深く影響し合っていることは鈴木本人が言っています。その通りでしょう。筆者など、西田の「善の研究」は「禅の研究」と言ってもいいと思っています。おそらく同じような思想に達し、鈴木は「禅」として、西田は哲学としたのでしょう。
 じつは大変興味深いことに、西田と同じような考えがすでにドイツ観念論哲学としてありました。すなわち西田自身が言っていますように、彼がその思想を確立する以前に、カント(1724‐1804)、フィヒテ(1762-1814)やヘーゲル(1770-1831)らの先人達の成果があったのです(くわしくは拙著「禅を正しく、わかりやすく」パレード出版をご参照ください)。西田は謙虚にその旨を述べていますが、彼はすでに高校生時代からそういう考えを持っていたと言いますから、やはりすばらしいですね(註4)。

 東洋の禅と西洋の哲学が同じ思想に達したのは、別に驚くことではないようにも思います。一つの「モノゴトの観かた」ですから。「私がいてモノを見る」という唯物論的モノゴトの見方は、カント以降、18‐19世紀にイギリスから始まった産業革命、すなわちモノを重視する時代からですから。それにしても初代達磨大師が中国へ来て禅を広めたのは5世紀から6世紀のことです。一方、カントが観念論哲学を言い出したのは18世紀、つまり、達磨大師の1300年も後のことですから、いかに東洋思想が素晴らしいかおわかりいただけるでしょう。

註4 拙著「続・禅を正しくわかりやすく」で、「モノゴトを観る(聞く、嗅ぐ、味わう、触る)という一瞬の体験こそが真実の姿である」ことを現代物理学の視点から詳しくお話ししました。ご参照いただければ幸いです。

「龍樹の「空」と禅の「空」は異なる(4)」への2件のフィードバック

  1. 西田幾多郎著『善の研究』第3編13章「完全なる善行」の末尾に、
    「真の善行とは、…真の自己を知るというに尽きて居る。真の自己を知る…法は、ただ主客合一の力を自得するにあるのみである。…仏教ではこれを見性という。」
    とあります。『禅の研究』と言っても差し支えないと思います。

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