浄土の教えの誤解(2その2正法眼蔵・生死)

禅思想の究極には絶対神がある

 前回、秋田県の玉川温泉に集まる末期ガンを宣告された人たちの声をご紹介しました。自分の力ではどうしようもないこともあります。事件や事故で大切な肉親を失った人も同様でしょう。悲しくて辛いのは想像に余りあります。しかし、苦しさや辛さをいつまでも引きずるのは、体にも障るはず。よく使われる「それでは亡くなった人が浮ばれないから」という言葉は、長い間に培われた人間の知恵でしょう。
 
道元は人間の生死について、すばらしい言葉を残しています。「正法眼蔵 生死(しょうじ)巻」別巻5で、
 ・・・(生死は)厭うことなかれ、願うことなかれ。この生死は、すなはち仏の御いのち(命)なり、これを厭い捨てんとすれば、すなはち 仏の御いのち(命)を失なわんとするなり。これに留(と)どまりて、生死に執著すれば、これも仏の命を失うなり。仏のありさまを留どむるなり。厭うことなく、慕うことなき、このときはじめて、仏の心にいる。ただし心をもて測ることなかれ、言葉をもて言うことなかれ。ただわが身をも心をも、放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて、これに従いもてゆくとき、力をも入れず、心をも費やさずして、生死 を離れ仏となる。誰の人か、心に滞るべき・・・

 筆者は最初、この道元の教えを読んで驚きました。道元は禅の悟りに至っていたはずですから、当然、自力で生死の問題も達観していたと思っていたのです。ところが、実際には道元は他力の人だったのです。しかし、ほとんどの人は他力の意味を誤解していると思います。他力とは、「神さま(仏さま)助けて下さい」とは違うのです。もちろん、重い病気の場合、悔いのない治療は受けなければなりません。しかし、それは過剰診療ではありません。筆者の知人に、末期ガンの御主人を治すため、財産のすべてを使ってしまった人がいます。それでも亡くなりました。

 「最後は、神さま(仏さま)にお任せしよう」と道元は言っているのです。筆者の友人が言っていました「末期ガンの知人のお見舞いに行ったところ、まったくいつもと変わらない態度で本を読んでいた」と。その人は敬虔なクリスチャンだったそうです。「長崎の鐘」の著者永井隆博士は、長崎医大の放射線科の医師でした。当時のX線装置は不完全で、治療中に放射線が漏れ、医師や技師たちは深刻な放射線障害を受けるのがめずらしくなかったようです。永井博士は原爆に曝される前すでに、職業病としてX線障害を受けていたとか。夫人にそれを告白すると、夫人は「すべて神さまの思し召しどおりに」と答えたそうです。「神を心から信じる」とはそういうことなのだと思います。

筆者が「無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経などは単なるお話で、法然や親鸞の教えの真意は別にある」と言っていますのはそういう意味なのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です