能楽と禅(2)

能楽に「隅田川」という演目があります。あらすじは、

  春の夕暮れ時、武蔵の国隅田川の渡し場に女がたどり着きます。気が狂れていると思ったが、船頭が事情を聞いてみると、都から人さらいにさらわれた12歳の息子を捜しに来たと言う。船頭は「お前さまは気など触れていない。じつは、ちょうど一年前の今日、ここで亡くなった子供があり、死ぬ間際に、都の『吉田何某の子梅若丸です。自分が死んだらここへ柳の木を植えて供養してほしい』と言い残しました。命日の今日、村人が供養の大念仏をします」と言った。女は「それこそ我が子に違いない」と、村人とともに念仏に加わった。鉦鼓を鳴らして大念仏を唱えて弔っていると、母が「みなさま静かにしてほしい。子供の声がします」と言うと、塚の内から梅若丸の亡霊が現れ、ともに念仏を唱えていたのです。母が抱きしめようと近寄ると、幻は腕をすり抜けてしまいました。やがて東の空が白み始め、夜明けと共に亡霊の姿も消え、母はただ塚の前で涙にむせぶのでした・・・

 世阿弥の子と言われる観世元雅(1394‐1432?)作です。筆者はおよそ20年前にテレビで鑑賞しました。とても印象的だったのは、能の様式に従って言葉も所作も抑えに抑えたものだったのですが、見ていて涙が止まりませんでした。演者の表情は文字通り「能面のように無表情」でした。言葉も情景描写も字幕がなければわからなかったほどです。それでも演技から訴えて来るものに筆者の心が揺さぶられ続けました。能楽のすばらしさに圧倒されたのです。能楽によって、現代の映画やテレビ・演劇技法の一切が否定されてしまいます。恐ろしいことです。現代芸術は騒々し過ぎませんか?能楽ではあらゆる余分なものをそぎ落とし、究極にまでシンプルなものにします。そして静かに静かに私たちの心に沁みこんでくるのです。これこそ観阿弥・世阿弥がした表現した禅の心だと思います。

 家庭も持たず、名誉にも富にも一切無頓着な清貧そのものの生涯を送った良寛さんの生き方に通じますね。良寛さんは「雨の降る粗末な草庵の中でゆったりと足を延ばしている。それだけでこの私の心は限りなく豊かです」と詠っています。

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